一般質問中に感じたこと
一般質問が終了した。質問の組み立ては、いつもどおりのような感じだったが、ぼくの質問は、相手に最小限の答弁しかさせないようなところがあって、相手は窮屈に感じている節がある。
教育長が、ぼくの質問に答えるだけではなく、2学期制導入の意義について、紹介するように答弁したのは、無理からぬことだなと思った。ふところの深い質問というものを考えることが大事なのかも知れないなと、その答弁を聞きながら感じた。
質問の最中にこういうことを感じられたのは、いいことなのかも知れない。
自治体のおこなっている事業について、敬意を払いながら、批判的な質問するという姿勢が大事だと思う。肯定的に理解しながら、同時に批判的にとらえるということの意味の深さを改めて感じる。
議員の仕事というのは、実際の現場で、身を粉にして汗を流して努力するというものではない。議員は、物事を俯瞰し、仕事の中身に分け入っていき、分析したり批判したりして、新しい取り組み方向を提案したりしている。この仕事は、非常に大事な仕事だと思っているが、同時に汗をかいて、体を動かして苦労しながら実際に仕事をしている自治体の苦労の現場には立っていないことを忘れてはならないと思っている。
実際に物事と格闘して事態を前に切りひらこうとしている人の苦労は大きい。その苦労に敬意を払う心がないと傲慢になると思っている。
たとえば、人はみな、映画について作品の善し悪しを鋭く論評する。できのいい映画、できの悪い映画というものが実際にあり、できの悪い映画への批判は手厳しい。映画を作った側が手厳しい批判を甘受する必要があるのは、映画が商品として販売され、お金を払って見られる存在だからだろう。
しかし、この場合でも、作り手の努力や苦労に心を寄せる必要があると思っている。頭の中で考えているよりも作品を作るのは難しいからだ。優れた評論家が、優れた作家にならないケースもあるのは、作品を作る難しさにある。
優れた映画監督の作品でも、できの善し悪しがあり、描こうとした世界が描き入れていないと感じることも多い。ここに作品を作るという行為の奥深さがある。作家が意図したとおりの世界を描けないもどかしさが、作品作りの奥深さであり、こういう問題があるからこそ、作家は新しい作品作りに挑戦するのだと思う。
「もののけ姫」でこの問題を考えたい。
宮崎駿さんの「もののけ姫」は、多々良場で働く人々が自然を破壊し、それが山の守り神の怒りに触れて戦が発生しているという表現をしていた。しかし、日本でこれを描くことには無理があったと鈴木敏夫さんは語ったことがある。この論評は本質をついているなと思った。
日本の自然は、たとえばかなり大胆に山を切りひらいて破壊しても、ほっておけばものすごいスピードで植物を生やし、木を育てていく。数年間、ほっておけば、さまざまな植物が自生してくる。その変化は、確かにもとの自然を再生するということではないが、自然の回復力という点では、ものすごい力を示している。
ヨーロッパの自然は、破壊されたら再生しないで壊れていくケースが多いのだと鈴木さんは語っていた。日本とまったく自然環境が違うのだという。
日本は高温多湿な風土のところが多く、和歌山県なども、草を刈っても刈ってもどんどん生えてくる。自然はほっといても回復してくる。もののけ姫の舞台は西日本だった。山を切りひらいても日本の自然は回復してしまうので、あの描き方は日本じゃない、これが鈴木さんの語ったことだった。
鈴木さんの論評には、「もののけ姫」という作品に深く関わった人の温かさがある。作品作りの苦労が分かる人の論評なのだと思う。
肯定的に理解しながらも批判的な視点を失わないものの見方を感じる。
物作りへの敬意を見失った評論は、読んでいて悲しい。映画は商品なので、商品を買った人が作品をぼろくそに批判するのは許されると思うが、深い批評は、作品作りの苦労を踏まえた上での批判なのだと思う。そういう批評に出会ったとき、映画を作った側の人々はその批評を読みたいと思うし、耳をかたむけたくなるのだと思う。
淀川長治さんは、日曜洋画劇場の短い解説で、かならず放映した映画のよいところをほめたという話が残っている。映画作りの苦労を知った人の、ぼくは、このエピソードを批評のあり方の実例を示す話だと思っている。
議員の仕事も、現場の苦労を踏まえ、そのことを知った上での問題提起なのだということを忘れてはならないと思う。現場には、なかなか思いどおりにならないジレンマというものや事態を切り開けないさまざまな障害が横たわっている。このことを深く知るためには、物事を肯定的に理解しながらも批判的に見るという複眼的な視点が必要になる。
教育長の答弁を聞きながら、2学期制を導入して、真面目に取り組んできた人々の苦労への敬意が足らなかったのかも知れないとも考えた。そういう印象が教育長の答弁になって返ってきたのではないかとも感じた。
一般質問には、たえず不十分さがつきまとってくる。今回は、ぼくの質問の組み立てを改めて考えさせてくれる契機になるかも知れない。
人間は、自分自身のことが一番見えない。他人のことはよく見える。誰のことを一番知らないのかと問えば、面白いのは、自分のことは自分が一番よく知っているが、また同時に自分こことは自分にはなかなか見えないということが同時に存在しているということだ。だからこそ人は、たえず他人からの評価が気になるのだ。
自分の顔だけは自分の肉眼で見ることができない。写真では自分の姿を見れるが、それは絶えず過去の自分だし、ほんの一瞬、その瞬間を切り取った姿でしかない。鏡を見ているときには、いつも左右反対になっている自分と対面している。鏡の中の自分は、ひっくり返った自分でしかない。
見たいと思っても見れない。これが自分を見るということだろう。








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