父親の戸籍が届いた

雑感,出来事

紀美野町にお願いしていた戸籍謄本が届いた。父親の兄弟についても、その父と母についても記載があった。ぼくのルーツに関わる戸籍を初めて見た。父親の兄弟は多く、そこにはぼくの知らない名前もあった。父の誕生日が大正8年(1919年)11月20日であることが初めて分かった。戦争が終わった8月15日の時点で父は満25歳だった。
この戸籍を封筒に入れて和歌山県に送れば、父の軍歴が分かる。自分の父が中国戦線のどの場所にいて、どういう戦争に巻き込まれていたのか、軍歴が分かれば調べてみたいと思っている。

人は、同時代の人々の中に記憶を残す。どれぐらいの人々と関わりどれぐらいの人々の中に自分の生きた記憶が残るのだろうか。ぼくのほんの身近な人の中に父親の両親(祖父母)の存在がある。しかし、ぼくには祖父母の記憶が全くない。生きて関わったことのない人々の存在は、自分の中には全く存在しないとの同じだ。会った記憶のない祖父母のことを思うと、いつも人間のはかなさに思いが及ぶ。

作家や俳優や歌手は幸せな存在なのかも知れない。会ったことのない人々にも、自分の生きた記録や映像や思いを残すことができる。小説を書いて本をこの世に残した人々の中で、名作と呼ばれるものは、作家が亡くなっても自分の思いや感じたことを本という形で残すことができる。歌手や俳優は、自分の歌や映画を映像や音声として残す。世の中に残せる時間というのは、どれぐらいのものなのかは分からない。かなり幅の広い世代に記憶として残したとしても、100年も経てば、残された映像も音声も消えていくだろう。ただ、映像や音声の技術が発展してデジタル化したので、劣化しないまま次の世代に記録を渡せるようになった。この技術の発展が人々の記憶に与える影響については、もう少し時間が経たないと見えてこないかも知れない。

何が残っていくのか。膨大な情報の中で淘汰されても残るものは何だろう。検索の技術が大きく発展して、誰でも自由に、すぐに、簡単に取り出すようになれば、人々の記憶にも変化が起こるのかも知れない。でもリアルタイムで見ることのできるものでないと、過去の映像にアクセスできたとしても、やはり見られることは少なくなっていくだろう。同時代性の意味はいつの時代になってもやはり大きい。

古い時代の映像は、自分たちの生活には存在しなくなった古い生活様式を映し出す。それが小さい頃の自分の体験と結びつく世代と、全く結びつかない世代であれば、受け止めは違うだろうか。戦国の時代劇を普通に見る感覚で、自分の体験したことのない時代の映像を見ることができるだろうか。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明