笠田高校、決勝進出 2005年7月27日(水)

出来事

午前も午後も事務所で紀の川市になる那賀5町のビラ作りをおこなった。和歌山からNさんの応援をもらった。朝10時30分から2人で打ち合わせをしながらビラ作成の話を進めていく。午後から具体的に各自治体ごとにビラの切り口について一つ一つ協議をしながら進めていった。
一人で考えるよりもかなり気が楽だ。
午後、打ち合わせをしているとぼく宛に電話がかかってきた。議会事務局からだった。
「笠田高校野球部が、明日決勝を戦うことになりまして、町長や議長も応援に行くことになりました」
「えっ、笠田高校が決勝戦に出るんですか」
驚いてしまった。
知らなかった。まったく、存じ上げていなかった。不覚。
普段、高校野球の情報はまったくリサーチしていない。
知っていたのは、笠田高校が勝ち続ける限り、笠田まつりのコマーシャルを試合の合間に流してくれるということだけだった。
田辺市会議員の川崎君の子どもが参加したJA主催学童野球大会で、川崎君のこども達のチームが勝ったことは知っていた。
「子ども達の野球は何が起こるかわからない」
川崎君のこんなコメントまで知っているのに。
まさか、笠田高校が野球王国の和歌山の決勝に進出するなんて。
電話を聞いたときに高校2年生の暑い夏のことが思い出された。
ぼくは生徒会執行部にいたので、必然的に野球部の応援団に所属させられた。
当時、笠田高校は、生徒会執行部を応援団に巻き込んで、ホスト役を押しつけていた。
5月半ば頃から応援団が結成され、生徒会執行部は、お茶くみをやらされた。6月の暑い時期になると、ぼくと生徒会長は毎日、笠田小学校の正門の近くにある氷屋さんに氷を買いに行っていた。真新しいポリバケツ(実はごみ箱)に大きな氷を入れ、2人で笠田高校の屋上まで運ぶのだ。この氷には水が張られて、飲み水に使われた。
暑いさなかに、応援団は学生服を着て、鉢巻きを締めて、誰が考案したのか分からない空手の型を繰り返し練習する。総勢30人。男ばかりの応援団。
その当時流行っていたどおくまんの「花の応援団」(青田赤道、知ってますか?)のまねだったのかも知れない。
応援団だけ見ていると、野球部は強そうに見えた。
今から考えると、この応援団の伝統はすごい。
応援歌は「同期の桜」、「若鷲の歌」。
「若い血潮の予科練の」や「見事散ります国のため」──これがなぜ応援団の歌なのか、まったく不明だ。しかし、応援団は空手の型を披露しながら、肩を組みこれらの軍歌を歌っていた。軍歌はパチンコ屋の専売特許だけではなかった。意味不明の硬派が30年前には存在したのだ。
一番大変だったのは、生徒会長のM君と生徒会副会長のOさんだった。笠田高校の校旗は、刺繍縫いの極めて重たい旗である。いつもは校長室に立てられているこの旗が、紀三井寺球場まで運ばれて、応援席の一番前で手で持って斜めに掲げなければならない。MくんとOさんは、試合が終了するまで旗を降ろすことが許されず、真っ赤な顔をして重たい旗を持ち続けた。
「旗を持つのは、生徒会長と副会頭の務め」
これが厳つい先輩応援団長の訓辞だった。
ぼくたち、他の執行部の「だいじょうぶですか」という声かけは、全くの気休めだった。
この年、笠田高校は何年かぶりに1回戦を突破した。
MくんとOさんは、この大任を見事に成し遂げた。
M君は県庁の職員になった。「笠田高校決勝戦進出」──新聞の記事を読むM君の顔が目に浮かぶ。
野球の公式試合を見たのは、この時だけである。以来、テレビで夢中になって見た試合はたくさんあるけれど、球場には足を運んだことがない。ほぼ30年たって、もう一度笠田高校の試合を紀三井寺球場で見ることになる。今度は甲子園への切符がかかっている。
学生服姿の応援団は、まだ存在するだろうか。応援歌はどうなっているのだろう。
「おい、執行部!!」
応援団にこき使われていたぼくは、高校球児の勇姿を見たい。同時に笠田高校の応援団の姿も見てみたい。
笠田高校がんばれ。


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出来事

Posted by 東芝 弘明