「壊れる日本人」によせて 2005年7月26日(火)

本の紹介

柳田邦男さんの「壊れる日本人」を読んだ。
日本人全体がケータイ・ネットで壊れつつあるという認識の下で書かれた本だ。
小此木啓吾さんの本を紹介しながら書いている点が興味を引く。紹介された小此木さんの本は、『「ケータイ・ネット人間」の精神分析〜少年も大人も引きこもりの時代〜」(飛鳥新社、のちに朝日文庫)というものだ。この本ではインターネットの魅力を5点上げている。柳田邦男さんは、この5点にコメントをつけて紹介している。
以下にその部分を紹介する。

(1)匿名で別人格になれる。──少年凶悪事件が起きたりすると、ホームページや掲示板に発信人不詳の加害者、被害者双方のプライバシー情報がどっと書き込まれる。中傷する言葉も多い。それでなくても辛い思いをしている被害者の心はズタズタにされる。匿名で別人格になれるということは、「品位(ディーセンシー)の喪失」をもたらすことになる。
(2)「全知全能の自分」を感じられる。──ボタン操作一つで、自分の意のままに画面の切り換えやリセットを毎日繰り返していると、非常に自己中心的な性格になりやすい。
(3)自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる。──友達づきあいのできない人や引きこもりの人たちにとっては、これまでできなかったいろいろな人たちとのコミュニケーションを積極的にはかれるようになる。しかも飾りのない言葉で話し合える。それが引きこもりの再生につながる可能性にもなる。
(4)特定の人と親密な一体感がもてる。
(5)いやになったらいつでもやめられる。──このリセットという行為は、(2)の「全知全能の自分」につながるものだ。世界を思いのままに操れるという錯覚。そして日常の人間関係をめまぐるしいものにしていく。
 このような魅力に取り込まれると、「ケータイ・ネット依存症」になり、さらに進むと、「ケータイ・ネット自閉症」というべき状態に陥る。その世界では、もともと自然や直接の現実が、空虚なものになっていく。既述のように「現実感の逆転」が起こるのだ。それが小此木氏の論旨だ。


匿名で別人格になるということは、現実世界で生きる時間の人格とバーチャル世界で生きる時間の人格とが別々になる、つまり二重人格の様相を呈してくるということを意味している。そこで小此木氏は、別の評論文で論じているのだが、インターネットがもたらす人格の変化を「バーチャル多重人格」というキーワードでとらえる。


インターネットと匿名性の問題は、ここで指摘されているように極めて重要な問題をはらんでいる。匿名性は、活字文化に極めて重要な変化を引き起こしつつある。
もともと、活字文化というものは、記録に残るものであるから、自己責任がまず問われ、正確性を何よりも大切にしなければならない世界だった。どんな3流の、スキャンダル目当ての新聞や雑誌でも、著しい名誉棄損問題が起こると裁判に訴えられ、責任を取らせられてきた。活字の出所を明らかにしない宣伝文書や批判文書は、怪文書と呼ばれ一定の影響力を持つとはいえ信用されないものだった。
しかし、ネットによる掲示板などの世界では、匿名が当たり前になり、誹謗中傷のような言辞が氾濫するようになった。活字文化が守ってきた規範をネットは、わずか数年間で打ち壊しつつある。
たとえば、面と向かって「ばか」といっても、若い男性と女性が、優しく抱き合っている場合などは、一つの愛情表現であったりする。しかし、相手の表情や語り口調がすべて捨象されてしまうネットの世界では、このような言葉は、極めて露骨な攻撃性むき出しの表現となる。
手書きの手紙と印字された活字を比較すると、手書きの手紙の方がはるかに相手に多くの感情を伝える。個性や表情に格段の差がある。手紙とインターネットメールは、明らかに違う。
ネットにおけるコミュニケーションのトラブルは、活字が全ての情報を伝えないことを自覚しない人々が引き起こしているように思う。しかも、相手の心に突き刺さるきつい言葉も、掲示板などの場合、発信者は匿名性という防護服で守られる。双方が匿名を名乗り合っている場合、誹謗中傷合戦になったりする。ぼくの同僚議員は、イラクで起こった人質事件で議論が沸騰したとき、ネット上で「批判するなら名を名乗れ。自己責任といいながら人質になった人を攻撃するなら名を名乗れ」と言った。自己責任を追及しながら、自己責任を果たさない匿名性ということである。
匿名で別人格になれる──という状況は、多重人格を自分で製造し再生産するという危険性をはらんでいる。匿名性は「品位の喪失をもたらす」という怖さを内包していることを、ネットを活用する人は自覚すべきだと思う。
柳田さんは、便利なケータイやインターネット、IT技術、テレビ、テレビゲームなどが人間の大事なものを削ぎ落としていると感じている。テレビもない、ケータイもない、パソコンもない国の人々は、実にゆったりと生き、実に思慮深く心豊かに生きているという話をどこかの国の例を挙げて紹介している。
車と歩きの違いも例に上げている。
車で走ると、多くのものを見落とす。町並みには色々な表情があるのに車で毎日走っていると豊かな存在に気がつかない。車で走っている道を歩いてみれば、このことはよく分かる。
20歳の人はことわざの意味を100%理解できる。しかし、60歳の人がそのことわざを理解している深さは20代の人をはるかに超える。こういうことが多々あるのではなかろうか。
どのような世界にも無限がある。人間はその無限をくみ尽くすことはできない。全ての物事は非常に豊かであり、人間はそのごく一部しかしらないということだ。
本ではこれにかかわって、こんな話も紹介されている。

臨床心理学者の河合隼雄氏のエッセイ集「より道、わき道、散歩道」(創元社)の中の掌編「ITとit」の中でメールの効用と限界について、とても大事なことを述べている。メールを使うと、言いにくいことを互いにどんどん言い合えるからいいというのは、ある程度正しいけれど、カウンセリングという場で考えると、限界がある。パソコンやテレビ電話のような電子機器をとおしてのカウンセリングでは、特有の疎外感、「手が届かない」という感じがあり、決定的なのは、沈黙を共有することが極めて難しいことだ、という。


カウンセラーは、相手が沈黙しているとき、相手の表情を観察し、相手がどのような言葉を継ぎに発するかをじっくり待つ。何の情報もないように見える沈黙の時間が、実は豊かなものだということだろう。メール同士のやりとりでは、こういう人間関係は再現できない。人と人との関係は、足を運んで対面し、空間を共有し、向き合うことでしか作れない部分がある。
柳田さんは、便利に簡単にというものを手に入れるたびに失っていくものがあるという。これは全ての物事に当てはまるかも知れない。
静かに虫の声や雨の音を聞いて、胸にわき起こってくる感情に浸ったことがあるだろうか。星を眺め、月を見て物思いにふけったことがあるだろうか。
便利さと忙しさの中で、見なければならないものを見失い、感じ取らなければならないことを感じ取れなくなっているのではなかろうか。
自分自身をリフレッシュするためには、非効率な環境に浸って、自分の手でいろいろなことを体験してみることが必要なのかも知れない。便利さを当たり前のこととして受け止めないように、便利さに至ったプロセスを知るためにも、柳田さんのいう「非効率のすすめ」が大事なように思う。
「壊れる日本人」のなかにぼくも入っている。ケータイには依存していないが、ネットには依存している。救いは、頭を使って文章を書いているということだろうか。


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Posted by 東芝 弘明