『丘の上のバカ』はいい本だった

雑感,本の紹介

高橋源一郎さんの『丘の上のバカ』を読んだ。この作家のようにぼくは、自分の感覚に耳を傾け、それを見つめる努力をしているだろうか。というのがまず押し寄せてきた感想だった。
自分の心身を通じて発せられる「私」を主語にした言葉を本当に紡ぎだしているのだろうか。
この問いは、深く考えるべきものを孕んでいる。
日本国憲法の第13条が、この問いに絡みつく。
「第十三条すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
国民主権は、この13条を基礎にしている。
高橋さんは、民主主義の根底にある個人を見つめ、そこに徹底的にこだわっている。個人の感覚を大事にしないと民主主義にはならないというかのように。

議員も「自分の言葉で語るようにしよう」と共産党内でもよく言われているが、これがなかなか難しいという議論になる。
難しいのは、「自分の言葉で語る」ということが、もう一つ鮮明にならないということにもある。
しかし、自分の言葉で語るというのは、自分の身体を通じて紡ぎ出される言葉によって、支えられている「私」を主語にした言葉である、ということであれば、めざすべき方向はかなりはっきりする。

日本共産党の議員は、党中央の文書に書かれている言葉によって、ものごとを理解しようとしてきた。正確に正しく語りたいということになると、書かれている言葉を引用して発言したいと言うことになる。
でも、聞く方は、「日本共産党の議員はみんな同じ言い方をする」ということになってしまう。
こういう方法ではなく、自分の五感、自分の皮膚感覚、自分の心身を通じて感じ取ったものを言葉にする作業をすればいい。いろいろな本を読み、いろいろな論文を読んで、語りたい世界の内容を立体的に把握しながら、アウトプットをするときは、自分の感覚を大切にしてアウトプットするということを繰り返していけば、学んだことを自分の言葉で語れるような気がする。
引用がだめだということではない。引用というのは、他人の言葉を借りて物事を語るということだが、引用の部分と自分の書く文章が同じようなレベルになる必要があるし、借り物でない文章になるためには、「私」というものが語るということが重要になる。

卒業式の時の訓示めいた話が、空々しく感じることがある。語り手があたかも神のようになって、オリンピック選手の努力などを称えて、「みなさんにはオリンピック選手のように可能性があるのでがんばってください」というのは、いかにも嘘くさい。そこには「私」というものがない。ぼくがずっと感じていた違和感は、「私」がないことへの違和感だったようだ。

もう一つ、高橋さんの話を通じて感じたことがある。
高橋さんは学生時代、学生運動に関わっていた。しかもそれはかなり深く。そこから離れ肉体労働やいかがわしいやくざまがいの仕事までして、生活していた時期をへて作家になった。学生運動から離れて以後、選挙にいたことのない時期が長く続いたと書いている。安保法制が大問題になったときに、高橋さんは、東京のあのデモの中にいた。今は選挙に「まじめ」に行っているとも書いている。

日本共産党の歴史が95年になろうとしている。戦前、戦争反対と国民主権を掲げたたために日本共産党は、非合法の政党として出発せざるを得なかった。当時の天皇制政府は、何よりも戦争反対と国民主権を徹底的に弾圧したからだ。戦争反対と国民主権という掲げられた目標は、まさに天皇中心の「国体」に直接土足で踏み込むものだった。共産党弾圧というのは、まさに国体変革をスローガンにした団体を抹殺しようとするものに等しかった。日本共産党の目標は、天皇制政府が一番触れられることを嫌がっていたものに触れていた。中央委員会が弾圧によって、解体させられ、機能停止に追い込まれるまで逮捕、投獄されたのは、「国体」に触れていたからだった。
しかし、この「国体」は、戦争に敗北することによって「解体」させられた。戦争反対というスローガンは、「恒久平和」という形で実現し、国民主権は、「こに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という言葉によって実現した。
日本共産党が非合法にならざるを得なかった目標は、憲法を通じて実現し、日本共産党は合法政党になることができた。この目標ができてみると、日本共産党が掲げていたことは、民主国家なら当たり前の大原則だったということに他ならない。

戦前、日本共産党に参加した人々は、命がけだった。熱い情熱を持って若い時代に日本共産党に接近した人々は、「赤化事件」であるかのようにあつかわれた。「熱病」のように日本共産党の「理想」にかぶれて、党員になり、命を奪うが如く拷問を受ける中で「転向」した人も少なくなかった。
人間として、節を曲げず日本共産党員としての心情を貫いた人々の中には、拷問によって命を文字どおり奪われた人もいた。これらの人々の輝きは、戦後の多くの日本共産党に集まってきた人々の希望だった。

戦後、日本共産党は、合法政党として再出発して多くの党員を得た。あれから72年。今年は憲法が制定されて70年の節目になる。戦後直後20歳だった若者は92歳になった。若者は、熱にうなされるように日本共産党に接近し、大人になるに従って生活の中で日本共産党から離れて行くという人も少なくなかった。しかし、その一方で、自分たちの人生のさまざまなステージの中で、いつも生活を維持しながら、党員であり続ける人が数多く存在するようになった。自分の生活を大事にして、共産党の活動を後回しにしたり、小さな幸せを追求したりすることを「プチブル」だというような批判もあったようだが、生活の中に根をはった党員の人々は、そんな頭で考えて判断していたような次元を超えて、党員としての長い人生を歩いてきた。党員の中には、思うように党活動ができなかった時期が長い人も、いつの時期も活動の先頭にいた人もいた。

若い一時の情熱だけで党に入り、社会人になって現実に触れる中で、何らかの挫折をして、まわり右して、党員だった時代とは全く正反対に生きた人も多かった。しかし、どんな試練があっても、仲間の力に支えられて、しなやかにねばり強く生き抜いて、党員としての人生を全うした人もたくさん存在する。日本共産党の92年の歴史は、人生の半分以上の全てを通じて、党員として生き抜いた人々を数多く生み出した時間でもあった。
92年という党の歴史は、生涯を通じて党員として生きるという人間の生き方を無数に証明していると思われる。60年安保の時代、70年安保の時代を通じて党に入り、ずっと党員として今も生きている人は多い。これらの人々の人生には、熱病でも何でもない、静かな党員としてのライフワークが個人という具体的な身体を通して描かれている。

「若いときはみんな日本共産党にかぶれるんよ」
と語った人もいた。
「しかし、日本共産党というのは、そういうもんではないです。もっと息の長い、自分の人生を党員として生き抜いていくという、いわばもっと物静かな地道なものだと思います」
今ならこういう言葉を返せると思われる。日本共産党にはそれだけの歴史の重みがある。ぼくは18歳の時に党に入り、もうすぐ40年になる。この40年間、日本共産党員であったことに誇りがある。人生の後半に入りつつあるなかで、党員として生涯を貫くという点についてためらいというものもない。次第に自分の視野が広がっているように、党員としてしなやかに生きることのできる発展の方向が見えているような気がしている。
日本共産党員として生き抜くというのは、そんなに大変なことではないし、無理をすることでもない。一時的なものでもない。生活を大切にしながら、小さな個人的幸せを実現しながら、同時に党員であることは、十二分に可能だということ、むしろ自分の幸福を最大限追求するためには、党員として生きることがいい、中には、自分の信念を貫き通して、自分の能力を開花するためには、党員であった方がずっといい、という生き方になっている人もいる。ぼくが、党員として得られている実感は、党員としてあったので成長できたと思っているというものに近い。

安保法制反対、立憲主義を守れという運動の中で、個人の尊厳を守る、一人ひとりの個性を守り、主権者である国民として、自分の感覚で自分のこととして、安保法制反対という運動が起こった。この運動は、当然、日本共産党員のあり方にも影響を与えつつあると思っている。党員が自覚した一人の主権者として、自分の感覚を大切にして、個人として立って、かつ組織の一員として生きるということが、「できる」時代に入ったと感じている。「自分の言葉で語れ」というのは、党員が自分の感覚を大切にして、「私」を主語にして語るということに他ならない。主権者である国民の一人として、「個人として尊重され」ながら、党員として生きるということが可能な時代。そうであるべき時代に入りつつある。
「党の上に個人を置いてはならない」という言葉が規約から削除されて10年以上が経っている。個人的な魅力と党としての魅力。個人として輝くことによって党としても輝くことのできる新しい時代に入りつつある。
95年の党の党の歴史を支えてきた党員の人々の人生そのものが、この新しい変化を受け入れることのできる土壌を生み出している。

高橋さんの『丘の上のバカ』は、こういうことを考えさせてくれた。
この本は、もちろん党員の生き方などこれっぽっちも書いていない。テーマでさえない。日本共産党という言葉は出てこない。しかし、ぼくにはこういう示唆を与えてくれた。こういう示唆を与えてくれた本として、記憶に残る本だった。

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Posted by 東芝 弘明