中間小説と純文学 2005年11月9日(水)

雑感

朝から会議が連続したので、小説についてひとこと。
小説には純文学や中間小説などという呼び方がある。これ以外にも推理小説やキャラクター小説、ファンタジー、エンターテインメント、時代小説などがある。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」などは、ファンタジーと呼んでもいいようなものだし、太宰治の「走れメロス」などは、児童文学だと思う。
いったいどういう基準で、これは純文学、これは中間小説などと呼ばれるのだろうか。
五木寛之さんなどは、中間小説を書くという認識で書いているようなフシがある。
何が純文学なのか、何が中間小説なのか。誰か答えていただける方はいないものか。
個人的な見解をいえば、
こういう分け方には意味がない。と思う。
推理小説については、松本清張さんが、「推理小説は文学たりえるか」というテーマを設定して論じていたと記憶している。
大江健三郎さんが、最近読売新聞に連載していた小説は、タイムトラベルする話だったから、これはファンタジー?。
小説の中には、志が低く、テーマをもっていないようなものがある。ただ単に娯楽のためにだけ書いているような小説だ。こういう小説は読んでもあとに残らない。
推理小説の中にも、作家が追及したい文学的なテーマが込められた作品がある。こういう作品は、いつまでも鮮やかに胸に残る。
作品世界が十分読み応えがあるものになっていることが前提だが、大切なのは、作品に込められたものの深さ、大きさなのかも知れない。
しかし、文芸時評などを読むと、純文学系の文芸時評には、中間小説などは批評の対象になっていないように見える。
誰かが、どこかでジャンルを分けているのだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明