禿げの克服

雑感

さて、1年が終了する。今年は1月1日と2日、岩出市の備前交差点で
「あけましてとうございます」
と大声であいさつしながら始まった。それは昨日のことのように覚えている。岩出市議選挙から新年がはじまり、3月議会を経て、衆議院選挙の準備のアプローチと紀の川市議選挙のアプローチがあり、衆議院選挙を経て、紀の川市議選挙があり、年末を迎えた。岩出市と紀の川市議選挙は、岩出市が無投票当選、紀の川市が1人オーバーの少数激戦となった。どちらも日本共産党は、現有議席を守ることができた。

個人的に今年うれしかったのは、頭の髪の毛が生えてきて、禿げをかなり克服したことだった。デブの方も2年間ほど朝食抜きの生活に移行したので7キロほど体重が減って克服できている。チビでデブで禿げという3拍子が、チビだけになったので「若返った」といわれるようになった。髪の毛は、ヘルメットをかぶり日曜版を1時間半ほど配達すると、髪の毛がべっちゃり頭に張り付き、地肌が見るも無惨に広がるようになっていたが、ヘルメットをかぶってもそういう状態にはならず、地肌も見えなくなった。

新年は、ここから始まる。

政治的には、日本の時計の針を逆に動かす力が強くなったことが気になる。マスメディアが、ほぼ完全に体制側について、都合の悪いことは報道しない、権力の広報の役割を果たすというところまで進んでしまったので、権力側の思い描くような政治的な結果が生まれるようになった。年末には維新の率いる大阪府と読売大阪本社が包括協定を結ぶというとんでもないことまで起こった。この包括協定は、維新政治のプロパガンダをしようという宣言だろう。
アメリカの引き起こす戦争に日本が参加することを、戦前の教訓を踏まえて止めるのではなしに、戦争への道を促進する役割をメディアが果たそうとしているなかで新年が始まる。憲法改正が国民の関心事ではないのに、憲法改正に思いっきり舵を切るなかでの新年でもある。

「野党は批判ばかり」という批判をマスメディアがおこなうようになった。この野党に対する批判は、メディアにとっては自分の使命を忘れた言説だった。何度も書いてきたが、国民の1人1人は事実に接することは不可能だ。橋渡しをするのはいつもメディアなのに、しかもメディアは歴史的に形成されてきた日本国の精神(=憲法の原則)に基づいて権力を批判するのが仕事なのに、お先棒を担ぐようになった。メディアは権力の別働隊に成り果てようとしている。

国民が、国民の権利と日本国の平和な未来を守ろうと思ったら、自分たちでマスメディアの描く政界とは違う本物の世界を伝え、権力側の描く未来とは違う未来を展望してたたかわなければならなくなっている。
自民党政治のゆがみは、実は極限にまで達していて、国民に明るい未来を描くことさえできず、経済の衰退、失速の中にある。しかもこの方向に対する展望はない。自己責任の名で国民に責任を押しつけ、政治の役割を放棄しながら、国民のとの矛盾を抑え込む方向に政治を進めている。これらの矛盾に対する運動を強権で押さえ込みながら、負担増を限りなく押しつける政治を続けている。自公政権は、中国や北朝鮮を批判しながら、実は自由と民主主義を否定し、中国や北朝鮮と同じ権威主義的な国家へと暴走している。鬼を批判しながら、自分たちが鬼になる道に対する自覚がどこまであるのか。

マスメディアの批判と監視がなくなると、腐敗が進行していても正されることがなくなって、政治がより一層劣化し始めた。悪いことをしてもメディアが守ってくれる仕組みも、戦前とよく似ている。この状態が進んでいくと、真実が見えなくなって国民は洗脳状態になる。無責任な戦争遂行と破綻。これが太平洋戦争時の日本だったが、同じような仕組みができあがりつつあるので、歴史が繰り返されようとしている。

批判とともに展望を。100年の歴史を見据えて未来を展望している日本共産党の役割は大きい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明