自分の文章って、一体誰が書いているのか

雑感

見直さないで記事をアップすると、必ずと言っていいほど訂正しなければならない箇所が残っている。それで時間を空けて読み直し訂正することが多い。一度記事を読んでくれた人が、もう一度読み直すことは少ないだろうから、誤字なども含め直していない記事が読まれたままになる。それはどうしようもない。

ときには、かなり加筆することもある。とにかく文章を吐き出しているだけなので、どういう形で記事が決着するのかは、書き始めた時には決まっていない。原稿を書きながら、一体誰が本当はこの記事を書いているんだろうかと思うことがある。何らかの原因で記事が途中で全部消えたら、同じ表現の記事を100%再現することはできない。
結局、ひたすらその瞬間、文章をづづりながら何となく考え、次の文章が出てくるので、書いている記事をコントロールしているのは、瞬間、瞬間の判断だけということなのかも知れない。

脳が勝手に書いている?、書いている瞬間にだけ自分が存在する?ということなのだろうか。
今回の記事も、ここまで書いてみた。「見直さないで記事をアップすると」と書いた時点で、ここまで書いたような展開になるとは思っていなかった。
もちろん、もっと見通しを持って文章を書くことはある。筆任せでない書き方もしている。議会関係の原稿は、今日ほどは行き当たりばったりではない。

一般質問は、書きたい内容をとことん見つめて、とことん取材した上でかいているので、文章についてのナビゲーションは、書く前から存在している。ナビゲーションが自分の頭の中に鮮明になっているから、質問の展開は自然に最初から組み立っている。このときに邪魔をするのは、主観だろう。せっかく調べたんだからこの展開は残したい、という思いが働いて、切り捨てられないときがある。そうなると時間オーバー気味の「この展開はなくてもいいよね」というものが残る。
自分の努力を切り捨てる勇気がないということだろう。

とまあ、ここまで書いた。「一般質問は」という書き出しから「切り捨てる勇気がないということだろう」というところまで、こういう文章の展開になるとは思っていなかった。ほんと、文章を書くというのは不思議な作業だ。

会議をしていて、物事はほんとうに具体的なんだということをあらためて感じた瞬間があった。具体と抽象。この2つには親和性がある。物事は全て具体的なので、具体的に考えることが極めて大事なのだけれど、その具体的なものに具体的に接近するためには、抽象的な思考がどうしても必要になる。抽象的思考なしには、具体的な物事に深く接近できない。
ここ具体と抽象の弁証法がある。弁証法は、事物の存在の仕方にその根源がある。全ての事物は、相反する2つの傾向を持っていることが多い。しかし、一つのものの中にある相反する2つの傾向を、人間はなかなか捉えることはできないし、それを捉えて表現すると、言葉の表現上は形容矛盾を引き起こす場合がある。人間の作った基準の周りには矛盾が存在する。25万円以下で所得制限があって、25万円以下の人には、交付金が支給されるなどという場合、25万100円の所得がある場合は、制度の適用を受けられなくなる。実際は百円多いだけのことに何の意味があるのかということだ。基準という名で線引きすると、その周りには矛盾が存在するようになる。基準はどうしても矛盾を孕むということだろう。

連関と連鎖の中で物事を捉え始めると、形容矛盾はおかしい?というのがおかしくなってくる。言葉は現実を映し取る鏡なので、言葉上の矛盾にこだわって生合成を取ろうとすると、実際は現実から離れてしまうということが起こる。
今日は少し哲学的なことを書いてしまった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明