資本論学習会と竹灯籠

雑感,出来事

第1回資本論学習会

午後1時30分から資本論の学習会が始まり、まず最初の講義として石川康宏教授の資本論講座の初回を見た。この講座は日本共産党兵庫県委員会がYouTubeにアップしているものだった。感想ではレジメがほしいということになって、ぼくが兵庫県委員会に連絡することとなった。資本論学習会に10人が参加した。資本論を集団で学ぼうという意欲があって10人も参加するのは驚きだった。

学習会は2時間半にわたった。集団で資本論そのものを読むという体験は初めてのことになる。文章を読み解くのさえ難しい本なので、心してかからなければならない。
マルクスが全世界に対してどのような影響を与えているのかを示すエピソードがある。1999年秋にイギリスのBBCが行った、国内外の視聴者に対する「過去1000年間で最も偉大な思想家は誰か」を問うアンケートで、1位はカール・マルクス、2位がアインシュタイン、3位がニュートン、第4位がダーウィンだった。石川先生はこのアンケートも紹介していた。思想家として問うたときに2位から4位が自然科学者だったのに対し、1位が資本論を書いた経済学者、思想家、社会活動家だったマルクスだというのも面白い。

資本主義の分析において、カール・マルクスが果たした役割はずば抜けているということだろう。資本主義は、マルクスの分析から自由にはなれない。資本主義の問題を根本的に把握してる資本論は、100数十年経って、より一層輝きを増しているということだろう。資本論は、その膨大な情報ゆえに多くの専門家に示唆を与え続けている。世界中で聖書の次に大量に印刷されているのが『資本論』だが、それを読みこなしている人はそんなに多くない。ぼくも生涯の中で資本論を読み通したい1人でもある。

石川先生は、最後のところで本に印をつけ、欄外に徹底的に書き込むことを進めていた。本の余白は、文章を書き込むために存在しているという話は、すごく面白かった。ぼくが23歳頃からおこなっている学習方法も、本に書き込むことだった。自分なりの解釈も書く。本に書かれていることを、表現を変えて書くことも盛んに行う。ぼくは今までそうしてきた。石川先生はノートは必要ないと言い切り、ノートはなくなるが本はなくならないとも言っていた。面白い。積極的、主体的、能動的に本を読むために、新しい資本論を自分の書き込みで汚そうと決意した。

石川先生は、デンマークと日本の違いを簡単に説明していた。マルクスたちが勝てなかった1848年のドイツのブルジョア民主主義革命。このときにデンマークは革命に勝利し、この国は立憲君主制となり、国民主権が確立し、1900年代に入るときには、女性の参政権が確立したのだという。1848年からおよそ170年。デンマークの民主主義を求め続けた歴史は長い。この中でデンマークは、残業のない国をつくり、男女の平等と労働時間の短縮と医療費と教育の無料化、社会保障の充実を実現しているのだという。同じ資本主義でも日本は、国民主権が確立したのは1945年以降。日本国憲法は、第二次世界大戦の結果として世界史のなかれの中で生まれたが、国民がたたかいによって勝ち取ったという側面は極めて弱かった。それから77年。日本の民主主義の歴史とデンマークの民主主義の歴史は100年ほど分厚さの違いがある。

安保法制・戦争法反対の運動が起こったとき、立憲主義の回復と個人の尊厳の尊重に改めて光が当たり、憲法の再評価、捉え直しが国民のレベルで沸き起こった。この運動の中で立憲主義の回復と個人の尊厳の尊重が注目された意義は大きかった。国民が自ら起こした運動の中で、日本国憲法の価値を再認識したのだといえるだろう。

日本国憲法は未完の大器、日本国憲法どおりの国をつくる先に、本当の憲法改正の課題がある。日本国憲法の原則を守り発展させる方向での憲法改正を、日本国憲法は妨げていない。今の憲法改正は、国民主権と基本的人権の尊重と恒久平和主義を壊そうとする歴史逆行の所業だろう。この歴史の逆行が、アメリカの要求による地球規模での日米安保条約の展開という基軸で進められようとしているのは、戦後日本政治の宿命だとも思われる。この試練を乗りこえないと、本当の意味での国民主権も恒久平和も基本的人権の尊重も実現しないということに他ならない。

灯籠

会議が4時過ぎに終了する少し前に退席して、妙寺公民館に向かった。竹灯籠のイベントと町歩きが行われ、5時から点灯式があった。ぼくもそこに参加して、チャッカマンで蝋燭の入った竹灯籠に火をつけさせてもらった。人が集まり、力を合わせまちをつくる企画として、なんだか爽やかな企画だった。灯籠の火は美しい。空気の中で炎が揺らぐので電球とは違うものがある。

公民館のロビーには、昭和レトロの展示も行われていた。日本は、古いものが光のごとく速く失われていく。もっと古いものを大切にすることを文化にしないと、人間の暮らしの中に豊かな文化が残らないとも思う。ヨーロッパが古い町並みを残そうとす習慣が日本にないのはなぜかという問いを思い出した。作家の藤原審爾さんは、この問題に対して第二次世界大戦の空襲が原因だと書いていた。戦争が文化の断絶を生み、人々の命と建物を破壊したことによって、文化の継承という精神をも破壊したという指摘は鋭かった。

点灯された竹灯籠を見ていると
「竹は誰が切ったんだろう。切り口がささくれ立っていないのはどうしてなんだろう」
兄の同級生がぼくの横でそう言った。
この答えは、帰りがけに「東芝さん」と言って呼び止められた女性によって明らかになった。
「夏に竹を切ると虫に全部やられてしまうので、竹を切って置いてあったんよ。それを子どもたちにもってもらってのこぎりで切って、そのあと斜めに切ってくれたんは建具屋さん。切り口はグラインダーでささくれないようにしたんや」
なるほど。その竹に子どもたち1人1人が絵を描いて、当日は竹灯籠に蝋燭を入れ、綺麗に並べ点灯式を迎えたのだということだった。車に乗り込もうとしたときも
「東芝さんやないかな」という声が小さく聞こえたので、きびすを返して男女2人の人に近寄ってあいさつした。
「2階で演説を聞かせてもらった」
という返事が返ってきた。選挙のことを喜んでくれていた。嬉しかった。

今日はお通夜にも行き、そのあと友人にも会った。友人に意見を求めると、懸案の問題に対しては、相手に自分の考えていることをきちんと伝える必要があるという指摘を受けた。この忠告は胸に刻みたいと思った。


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雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明