『日曜の夜ぐらいは』

雑感

ドラマ『日曜の夜ぐらいは』が待ち遠しくなってきた。岡田惠和さんの脚本は、胸に沁みてくることが多い。坂本裕二さんの脚本と岡田惠和さんの脚本、それを丁寧に映像化する人々に拍手を送りたい。
社会を深く観察し、その中で生きている具体的な生身の人間を現実感豊かに描ける人がいる。ぼくはただ単にそれを見つけて、心揺さぶられながら見るだけだが、そういう作品に出会うだけで、幸せな感じになる。『日曜の夜ぐらいは』で描かれている三人の女性は、3人の抱えている家族の事情によって社会の中で孤立している。ドラマは、3人は友だちもいないという状況から始まり、ラジオという心が通い合う媒体の企画したバスツアーで出会うことになる。
切ないほどに、この社会で生きている人間の孤独と寂しさ、悲しさが滲み出るように描かれている。ドラマを見始めて考え始めたのは、どうして岡田惠和さんは、こんな風に社会の現実を踏まえて、人間の心の動きをリアルに描けるんだるかということだった。
社会に伝えたいのに伝えられない思いを抱えて生きている人は多いだろう。言葉にもできないし、態度にも表せないし、伝える術さえ見つからないし、定まらない思いを抱えた人々に、このドラマは何かを伝えているだろうと思う。
「ドラマの中に私がいる」
そう思っている人がいるに違いないと思う。
さだまさしさんが「案山子」という歌を世に出した時に「私も都会の中の案山子です」と葉書でリクエストを書いた人がいた。「日曜の夜ぐらいは」は、「案山子」と同じような共感を広げているのではないだろうか。

映画やドラマが時代を映し出して、そこで生きる人間を描くことによって、人々の心の中に大きな影響を与えてきた。社会とは何の関係もないようなドラマ作りをしても、社会の中で生きる人間は、何らかの形で社会の現実を映しとらざるを得ない。どのような作家も社会の現実からは逃れられない。しかし、この社会の現実を深く把握して、そこで生きる人間をリアルに生き生きと描くことは難しい。そういう点で岡田惠和さんは稀有な脚本家の1人だと思う。

彼女たち3人の孤独と寂しさと、喜びと悲しみを見て、ぼくは心を動かしたい。「北の国から」や「mother」と同じように、自分の中の記憶になって、社会に向き合う力になる作品。こういう作品がまだテレビを通じて配信されるところに救いがある。
ぼくにとって、議員という仕事は、少しでも社会を変えて人々の幸福の条件が整うようにしたいというところで成立している。「社会一般のために立ち働くことによって自らを高める」と書いた18歳のマルクスの言葉が、ぼくの議員活動の原点でもある。岡田惠和さんは、ぼくのような議員のために作品を世に出したわけではない。でもこのドラマは、この社会をもう少し良くしたいと思う気持ちにさせてくれる。岡田惠和さんに何だか感謝したい気持ちになる。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明