地域のまちづくりシンポジウム

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午後1時30分から高野口産業文化会館大ホールで、和歌山県主催の「地域まちづくりシンポジウム」が開催されたので出席した。
基調講演をおこなったのは、大学教授の藤目節夫氏(愛媛大学法文学部・教授 地域システム論 理学博士)だった。
氏は、住民自治の話として集落を単位とした住民参加のまちづくり計画を紹介し、地域でやれることは地域で、行政の力がいることは行政の力をかりてという事例を紹介した。
講演と同じ内容だと思われるPDFがあったのでアドレスを紹介しておく。少し読んでみると、講演よりも論理的な部分があり、氏の考え方が立体的に分かるようになっている。
エッセー「協働型まちづくりと地域自治ー内子町を事例としてー」
この話を聞きながら、どうして藤目教授が、市町村合併推進の立場に立っているのかよく分からなかった。氏の話で言えば、合併しても合併しなくてもそれは大して変わらないという感じがした。
1時間半の講演のあとパネルディスカッションにうつり、橋本市(木下善之氏)、かつらぎ町(山本惠章氏)、九度山町(岡本章氏)、高野町(後藤太栄氏)の各首長と橋本商工会議所会頭の小川弘士氏、総務省自治行政局市町村課・合併推進課課長補佐の下仲宏卓氏がパネラーとして壇上に並び、コーディネーター役を藤目節夫氏がつとめられた。
まず町づくりの課題をそれぞれの首長が発言し、広域的な課題や連携について2回目の発言をおこなった。
第1次合併の功罪はさまざまに存在するが、最も良かったのは、合併の議論を通じて真剣に考えられていなかった町づくりについて、自治体がようやく考えはじめたことだろう。
橋本市長は、ベッドタウンとして発展してきた橋本市だが、人口の流出がおこっていると発言し、介護が必要になったら橋本市の戻ってくるという心配も表明した。活性化の方策としては、企業誘致に力を入れ、雇用力を高めることに意欲を示した。
橋本市長の発言からは、まだ問題意識をふまえた上でまちづくりへという視点に認識が移行していないような感じをうけた。
かつらぎ町長は、観光農園や物産販売などによる農業による町おこしを発言した。
九度山町長は、次の合併があるとすれば、観光と産業興しは広域でおこなうべきだと発言した。
高野町長は、自律をめざした町づくりについて発言した。
九度山町長の発言に対し、高野町長は、観光という場合、宿泊数を視点に考える必要があると発言し、観光とは何かという視点を明確にした。
こういう発言の中で、総務省の下仲氏だけが、道州制の動きを語り、合併しなければならないこと、地方分権は実現する気配があることを発言して、他のパネラーとはまったくおもむきの違う発言に終始した。
下仲氏からは、伊都橋本の実情をほとんど知らないのに、伊都郡と橋本市は、全国の合併自治体と比較しても、非常に一体感のあるいい地域だという発言まで飛び出した。
紀ノ川の上流に位置する地域だけに起伏に富み、行政的な課題としてもさまざまな課題の違いをかかえている地域に対し、一体感がある地域だという論評には驚いてしまった。
会場からの質問という段階になって、あと10分たらずという状況だったので、質問者は2名程度ということになった。
ぼくも発言のために手を挙げ、幸いなことに2番目の質問者として指名してもらうことができた。
時間が迫っていたので、自分の考えをはしょらざるをえなかった。
ぼくは2つのことを下仲氏に対して質問した。
1つは、ようやく町づくりについて考えはじめている自治体の町づくりの取り組みを次の合併が壊してしまうのではないか、という問いかけだった。
これに対して、下仲氏は、地域コミュニティが壊れるというとらえ方としてぼくの質問を理解し、合併は役場がいっしょになるだけであって、コミュニティは壊れないと答えた。合併というのは団体自治の問題であって、住民自治には影響がないかのような発言だった。この発言は、自治体と地域住民との関係を理解しない、かなり乱暴な発言だと思った。
しかし、ぼくの質問は、地域コミュニティの話ではなく、ようやく生まれつつある自治体のまちづくりの視点が破壊されてしまうのではないかという話をしたつもりだった。誤解を生んだのは、発言の途中で藤目教授の話は参考になったといったからなのかも知れない。
議会の質疑ではないので、さらに真意を質すということができないので、聞いたことに対し、相手の意見を聞くだけになってしまう。
もっと質疑の時間を確保していただけらた良かったのにという感じがした。
もうひとつの質問は、流域下水道の借金が移管されてくること、高野山病院や紀北分院が存続できなくなる可能性があるのではないかという質問だった。こういう質問を国の方にするのは、筋違いなのはよく分かっていた。いいたかったのは、こういう地域の実情も知らないのに伊都橋本の合併がいいんだという発言をどんどんおこなうのは、無責任ではないかということだった。
回答では、そういう具体的な事情は知らないというコメントが帰ってきた。
ぼくともう1人の方の質問に対し、他のパネラーに藤目氏は意見を求めたが、発言はなかった。藤目氏は、ぼくの質問に対して、100%利益だけ、100%害だけという問題はないという前置きをして、次のような環境決定論の話をされた。
「道路がついたら、経済が良くなる、地域が活性化するという論議があるが、これは環境決定論だ。自治体が合併したら悪くなるというのも環境決定論ではないか。合併すると悪くなるというのであれば、(講演で紹介した)広島県高宮町(現広島県安芸高田市)の川根地域の取り組みをどう理解したらいいのか」
この話を聞きながら、自治体は単なる環境ではなく、もっと有機的に住民と結びついたものではないかという疑問(これは住民自治と団体自治とを分けて話した下仲氏にもいえることで、住民自治と団体自治は、ともに地方自治の本旨として不可分一体になっている2つの側面だということともつながる)と、安芸高田市の例は、高宮町の30年に及ぶ歴史的な取り組みの中で実ってきたことであって、合併効果という観点ではくくれないのではないかという疑問がわいてきた。
当然のことだが、市町村合併が実現したとしても、失望したり絶望するわけにはいかない。うまくいかない条件が広がったとしても、地域の活性化やまちづくりという課題はなくならないし、変わらないので、藤目教授が話されたような方向で、まちづくりを展開することが必要だろう。ただ、運命論的に市町村合併を受け入れろという話には賛同しがたい。環境がよいか悪いかという点でいえば、今以上に住民自治をめぐる環境が悪くなるのであれば、市町村合併を選択しないという判断もあり得る。
地域の具体的な現状をトータルに把握し、認識するためには、規模の小さな方がうまくいく。伊都郡と橋本市のような大規模な合併は、行政の力を低下させる可能性の方が大きい。
下仲氏は、和歌山県内の合併事例として、みなべ町の合併を紹介した。このみなべ町の合併がいいのだというのであれば、かつらぎ町や橋本市は合併しなくてもいいことになる。
みなべ町が、さらに大規模な合併を必要としないで、伊都郡と橋本市がさらに合併しなければならないというおかしな合併プランの矛盾ぐらい感じとっていただきたいものだ。
この方の発言は、底の浅いものだった。和歌山県の実情を深くつかまないで、合併をしゃにむに推進すべきだという発言には、憤りを感じる。
平成の第1次合併は、地域コミュニティを強化する方向がたくさん生まれたのではなく、むしろ今までの行政水準の低下や財政の縮小にともなうさまざまな困難を生み出した。こんな事態になっているのに、国は分析もせず、教訓も導き出さず、十分な説明責任を果たしていない。
住民を無視した上からの合併を推進すれば、町づくりの困難は、さらに増大する可能性がある。
藤目氏のいうような住民自治が実現している地域は少ない。
多くの自治体では、政治も行政も住民の意向を無視する形でおこなわれることが多く、意思決定がガラス張りになっていないという問題が横たわっている。行政の側が問答無用で、合併を推進し、協力せよといっても、住民のなかに協力する心は育たない。
国の施策が、地方切り捨ての方向に明確に動き、財政的な困難が増大している今日、行政が住民との間で信頼関係を回復していくためには、国の施策に対して自主的な視点で対処するという意味での自律心も必要になってくる。国の施策の悪化をすべて受け入れながら、制度を後退させつつ、住民の信頼を勝ち取ることはむつかしい。
住民と行政の間に信頼関係を築く努力が必要になる。こういう努力を何もおこなわないで、協働の必要性や地域コミュニティを軸にした地域づくりを語ると、それは、協働という名の押しつけになる可能性すらある。
伊都橋本の合併劇でいえば、橋本市と高野口町では、住民投票条例の制定を否定し、住民の意向を無視した合併がおこなわれた。これによって失われたものは大きい。
現在の自治体が、住民から信頼されているのかどうか。
信頼されていない原因の多くはどこにあるのか。こういうことに思いを寄せないで、協働を連呼してもうまくいかないのは明らかだろう。
住民の信託の上に行政があることを実現する課題が、まだ大きく立ちはだかっている。
住民が主人公になっていくなかではじめて真の協働が実現する。


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Posted by 東芝 弘明