灰色の景色

雑感

空一面、灰色の雲に覆われているように見えた。南の山も北の山も、空気にまで灰色に染まっているように見え、山も灰色の中にかすんでいる。雨が次第に迫っている。車で走っていると外の音がほとんど聞こえない。静かな灰色が街を覆っている。
雲と光りによって見慣れた風景は、さまざまな表情を見せる。人々の暮らしは、四季折々に変化する景色の中にとけ込んでいる。しかし、人々の暮らしは、表情を変える景色以上にさまざまな色合いが入り交じり、変化に富んでいる。その色合いには、不幸な出来事が複雑に絡まっている。

なんだか、最近10代の頃のことが切れ切れに思い出されてきた。
中学2年の時に母親が入院すると、次第にまわりのことが変化していった。小遣いは周500円だったが、まわりの友だちが持っているものが、自分にはなかったり、買ってもらってもなんだか見劣りするものだったりし始めた。
中学2年のときの運動会は、昼のお弁当がなかったので、昼食を抜いた。
3年生の時も、昼食抜きだったのだが、新城の友だちのお母さんがお弁当を作ってきてくれて、それを食べる事が出来た。自分でパンを買ったりするという気にならなかったのはどうしてだろう。駅前の家の隣は、パン屋さんだったというのに。
ぼくが、中学校の頃は、スーパーでおにぎりを買ったりお弁当を買うことができなかった。そういうものは商品化されていなかったからだ。菓子パンはあった。コーヒー牛乳もあった。
もしかしたら、運動会は、手の込んだお弁当以外に思いつかなかったから、菓子パンを買うという発想が全くなかったのかも知れない。

入院している母親には、こういう話は全くしたことがなかった。自分たちは、きちんと生活しているという姿を見せていたかったのかも知れない。

高校2年の頃、朝ご飯と昼ご飯を食べない時期が、かなり長期に続いたことがあった。その当時のぼくの月の小遣いは5000円だった。この5000円は、すべて昼食代になった。
笠田高校には、食堂があり、毎日うどんとおにぎりというような昼食を食べていた。しかし、5000円は月の半ばぐらいでなくなってしまう。しばらくの間、友だちに100円、200円と借りていたが、誰にいくら借りたか分からなくなって、それも止めてしまった。そのころから朝と昼を抜いて、夕ご飯だけを食べているようにした。
しばらくすると、完全なる欠食生徒になった。朝、ふとんから起き上がると天井が回る、起立、礼、着席の中で、礼をすると地面が回転した。貧血状態だった。席を立っても頭がふらついた。体育の時間は、クラクラしながら走っていた。でも、どこかでこの貧血状態を楽しんでいるようなところがあった。
こういう状態が続く中で、兄貴とつき合っていたぼくの同級生のNさんが、見かねてお弁当を作ってくれるようになった。
彼女の作ったお弁当をどれくらいの期間食べただろうか。貧血状態は改善して、目眩はしなくなっていった。
その後、お昼ご飯をどのようにして、改善できたのか記憶がない。

今から考えると、かなり深刻な状態だった。しかし、当時は、あまり深刻さを感じてはいなかった。人間は、かなり深刻な事態に直面していても、その事態の意味を深くとらえることが出来ないまま、生活をおくる。ときには、事態の深刻さを直視しないで、生きようとすることもある。
それが、生きる方法なのかも知れない。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明