子どもたちにある豊かな可能性

雑感

午後1時から子どもの会議を開いた。今日はリーダークラブの高校生、専門学校生の3人に参加してもらった。
段取りを親とリーダーで話し合って、子どもたちの会議をリーダーの子に進めてもらう。
会議が終わった後、リーダーの子から会議で決まったことを報告してもらって、親がサポートすべきことを検討する。
こういう流れで意思統一をすると5時をまわっていた。

隣の大ホールではダンスの練習が行われていた。

今の子どもたちは、物事を決定するスピードが速い。親の方がよっぽど時間がかかる。
子どもたちは、ぼくたちの子ども時代よりも豊かな側面をもっている。
それは確かなことではないだろうか。
今日はこのことを考えてみよう。

昨日、ぼくより年上の方と話をしていると、「お前たちよりおれらの方がよっぽど苦労している。お前らが体験していないことをおれらはいっぱい体験している」という話が出た。
確かにそのとおりだろう。
しかし。
ぼくは、この意見に異論を唱えた。
「体験でものを語るべきではないでしょう。あなたが体験したことを体験したくてもできない時代です」と。
「今の若いもんら、あかんよ。なってない。お前も俺から見たら何の苦労もしていないぼんぼんや」「人間の本質は変わらん。どれだけ体験したかなんや」
年配の方はそう言って、体験大事さを主張した。
60代のその方は、子どもの頃、電気製品のない時代を経てきたから、水汲み、薪割り、芝刈り、田植え何でもこなしてきただろう。
今は、蛇口をひねったら水とお湯が出て、お風呂にお湯を張ることもでき、洗濯機は全自動で時間が経ったら洗濯が終わるようになっている。冷蔵庫と冷凍庫があるので、食材は衛生的に管理できる。水汲みも薪割りも芝刈りも必要がなくなり、田植えも機械植えなので田んぼ一枚植えるのに数十分で完了する。
ぼくは、この時代背景の違いを踏まえて、「今の若い者は、確かに体験の度合いにはものすごく大きな違いがあるけれど、その若い人らの力によって次の時代はつくられるんです」と語った。

昨日話したぼくより年配の方は、人なつっこい笑顔を見せてくれるのが救いだが、自分よりも年齢の若い人間に対しては、かなり乱暴なものの言い方をする。(────ということなので、そういう会話を再現した)

人間の本質は変わらない。失った体験には、人間として大事な、学ばねばならないこともたくさんある。しかし、豊かな物質文明を土台にして、昔の時代には真似のできなかった面が、今の子どもたちには備わりつつもある。ぼくは、おそらく、こういう面は否定できないだろうと思っている。
物事に対する判断力、人前で自分の考えを表明する力は、昔の人を全体として超えているのではないだろうか。今の子どもたちを見ているとそう思う。音楽的なセンス、リズム感などは、明らかに若い世代の方が旧世代を上回っている。
時代の進展によって、苦労しなければ実現しなかったものが、簡単に実現できるようになるとともに、新しい物質的な条件の上に努力が実を結ぶという側面がある。

ただし、資本主義的な歪みが、さまざまな形で成長をはばんでいるので、豊かな物質的な条件が、人間の成長に生かされないという傾向も非常に強い。人間として豊かに育たない現実、他人とコミュニケーションが十分とれないという傾向も混在している。これは、単なる文明病ではない。過度に組織された競争的な教育の歪みによって人間性が破壊されている。
子どもをめぐる問題の根本問題は、資本主義日本における矛盾から生じている。つまり、教育の矛盾の根本には、産業界の歪みの反映がある。最近、この傾向は極端に悪化している。

たとえば、PDCAという考え方が教育界を席捲している。Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)というこの考え方は、産業界における商品生産や経営方針のあり方を示すものだ。こういう考え方で教育を運営するのは、根本的に間違っている。これを教育に当てはめると、教育は猫の目のように変化してしまう。
人間の育成は、商品開発ではない。もちろん、授業の改善に取り組むことは必要だが、人間育成の視点は、もっと長い見通しをもった、緩やかで確固としたものであるべきだろう。たえず激しい変化の中に置くと成長過程にある子どもたちの成長は保障できない。
人間の生育過程、発達の曲線に沿った教育、子どもの成長に寄り添うような教育、子どもの成長の目線に立った柔軟でしなやかな教育こそが求められている。PDCAには、子どもに寄り添う視点がない。これは、子ども不在のサイクルだといっていい。
労働者を徹底的に管理するように子どもたちを管理する傾向は、小学よりも中学、高校と進むにつれて強化される。資本主義の矛盾が、教育の世界に直接持ち込まれ、それが大きな歪みを生み出しているといわなければならない。

繰り返すが、こういう傾向があるにもかかわらず、今の子どもたちは、豊かな物質文明の中で、以前の時代よりも豊かに育っているという側面をもっている。若者は、ひ弱だといわれているが、そう呼ばれている若者たちが、確実に次の時代を担っていく。
ぼくは、「長いものに巻かれよ」という日本の歴史的な傾向は、ひ弱だといわれる今の若者たちによって、普通の感性でいとも簡単に乗り越えられるのではないかと思っている。
極端に発達した日本における個人主義は、連帯を求める時代の中で変化しようとしている。少なくともこの変化の兆しが見え始めている。
2011年の3.11の東日本大震災と福島原発事故は、人間の連帯、絆の重要性を国民の前に提起した。その結果、国民は連帯と絆を深く学び、この連帯と絆が、反原発のたたかいへと発展した。この経験は、若者に巨大で偉大な影響を与えずにはおかない。個人主義が、新しい連帯や絆を求めて変化すれば、個人主義と連帯が共存する時代が始まる。

新しい時代を切り拓くのは、新しい時代の中心を担う若い世代であることは間違いない。ぼくたちのような世代の希望もここにある。
子どもたちの自主性を尊重し、人間同士が力を合わせることを培うことが、新しい可能性を切り拓く。それは未来の扉を開く道でもある。
それは、自分の頭で物事を考え、自主的に判断し、個人を大切にし、相手を尊重し、力を合わせる、ということだ。────ここに人格の完成をめざす教育の目標もある。
人格の完成をめざす教育を復権させるために、学校教育の中心にある子どもを徹底して管理する産業界由来の悪しき傾向は、変革されなければならない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明