叔父さんが亡くなった

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叔父さんが亡くなった。79歳。母の弟にあたる人だ。夕方、仕事を切り上げてお通夜会場に向かうと日が落ちて夜になった。降り始めた雨は、会場に着く頃になると本降りとなった。お通夜が終わってからお顔を見せていただいた。叔父さんは優しく目を閉じていた。母親によく似ている顔がそこにあった。母が死んでから29年目の秋に2歳違いの叔父さんは亡くなった。
兄と妹もぼくの後から到着した。母の兄弟姉妹は、和歌山に住む姉だけになった。
従兄と言葉を交わす。
叔父さんは、和歌山に住むお姉さんに会いたがっていたという。しかし、お姉さんも高齢なので家を出ることも、行くこともかなわずこの願いは実現できなかった。
夫や妻が亡くなると身内で最後に残る人は兄弟姉妹だという話はよく聞く。仲たがいしている例もある。さまざまな問題が絡み合い、うまくいっていない例は多いとも言える。兄弟姉妹が仲良く支え合い、心を通わせられる関係で年を重ねていくことが、人間にとってかなり重要なことなのかも知れない。従兄は、親父さんの願いを叶えてあげたかったと言った。
昨日、「しんぶん赤旗」の集金先で浄土真宗の話を聞かせていただいた。真言宗と違って浄土真宗には、位牌がない。亡くなった方については、過去帳に名前を記載して残していくのだという。しかし、考えてみると位牌の裏に書かれてあるのは、俗名と亡くなった年月日と享年ぐらいだ。
人間の存在というのはほんとにはかない。人の記憶に残るのは、その人の歩んだ人生の時間と同じくらいかも知れないと最近書いたが、さらに考えを巡らせると、その人の記憶は、子どもと孫ぐらいにまで残るので、100年ぐらいは残っていくのだと思い返した。
しかし、過去帳(どんなものなのか知らないので勝手なことを書いてみる)にその人の経歴を残せるのであれば、会ったことのない自分につながる人を振り返ることができるようになる。過去帳という存在は、紙でつくられた本だが、木で作られた位牌よりも多くのメッセージを残せるのかも知れない。
今日のお通夜も浄土真宗だった。最後にお坊さんが御文章の一節を読み上げた。これは中興の祖と呼ばれる蓮如上人が残したもので、浄土真宗の教えを平易な文章で書いたものだ。お経に書かれているものをこういう形で世に示し、教えを説いた蓮如さんという方はえらかったと思う。この御文章は信仰を大きく広げる力になり、多くの人に受け入れられたのだという。
会場の外まで従兄は見送ってくれた。雨は来たときより強く降っていた。久しぶりにあったぼくたち3人の兄弟妹は、肩を並べて車を停めている駐車場まで歩いていった。


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Posted by 東芝 弘明