母の37回忌

雑感,出来事

母の37回忌を行いました。ごく少人数だけれど親戚の方々にも集まってもらいました。母が亡くなったのは、ぼくが高校2年の2月でした。真明寺のお坊さんに来ていただいて、ていねいに法要してもらいました。
真言宗のお経の中には、古いインドの言葉があるということを教えていただきました。ほとんどお経の意味も知らないまま法要のたびにお経と向きあってきました。しかし、般若心経などには、深くて面白い内容が書かれていると思われます。仏教には深い哲学があり、日本に伝来したときから、日本人の心を深くとらえてきました。そういう内容があるにもかかわらず、父や母の死後、何度も何度も繰り返し聞いてきたにもかかわらず、その内容をほとんど知らないまま今まで生きてきたことは、もったいないことでもあると思っています。

母が亡くなったときの暖かさと寒さは格別でした。4月のような暖かさが一変し、強烈な寒波がやってきて、高野山はマイナス10度以下に冷え込みました。1977年のあの時以上の寒さはまだ経験したことがありません。母の死を思い出すときには、あの時の寒さが一緒になって思い起こされます。

お葬式は、雪が降る中で行われました。正座する足が冷たかったこと、多くの人々が見守る中、棺を担いで円を描いて回ったとき、激しく降る雪でまわりが灰色と黒の2色に覆われていたことを思い出します。ぼくの同級生が同じクラスを中心にたくさん参列してくれました。JRと南海高野線に乗って高野山の中の橋まで来てくれたことには、頭が下がりました。

37回忌という年月の間に多くの人が亡くなりました。母の兄弟だった叔父さんと叔母さんも亡くなり、新城の従兄の両親も従兄の兄も亡くなりました。新城小学校で同僚だったぼくの恩師も昨年1月に亡くなりました。
人が生きた記憶は、同時代の人々の中にあります。記憶の中には貴重なものがたくさんありますが、はかないなと思うのは、同時代の方々が亡くなれば、それらの人々とともに記憶のかたまりも消えていくということです。
ぼくの母に対するさまざまな思いは、ぼくたち子どもの中に残っています。しかし、子どもの記憶というものは、子どもの世界から見た母の姿だけであり、母がこの社会の中で多くの人々と共有してきた社会人としての記憶は、同時代の人々とともに消えつつあります。
大正15年生まれだった母は、生きていれば87歳です。ぼくたちが大人になる前に亡くなったので、母に大人として話を聞く機会はありませんでした。ぼくが社会人になっていれば、もっと多くのことを聞けたのにと思うことがあります。

法要の後、古い写真を引っ張り出して高野山の従兄に見てもらいました。母の写真はほとんど白黒の写真です。写真は、思い出が形になったものですね。見ていると色々なことが浮かんできます。小学校の先生だった母の写真は、子どもたちと一緒に撮った記念写真が多いのが特徴でした。ぼくたちの知らない子どもたちと一緒に映った古い写真には、母がすました顔で映っています。

母の青春は、第2次世界大戦の激流からはじまり戦後の復興期と重なっています。「教え子をふたたび戦場に送るな」という言葉は、母の教師としての歩みに重なっています。
戦時中に教師になった母、疎開してきた子どもたちを教えていた母、出征を前に小学校を訪ねてきた同級生を見送った母、許嫁を沖縄の海で亡くした母、繰り返し徴兵されていた経験を持った父と結婚した母、父親が戦死した結果、わが家に引き取られた従兄を育てた母。母は、戦争によって生活も人生も翻弄されました。母のような世代の願いを汲み尽くさないまま、戦後わずか68年しか経っていないのに、日本は戦争をする国に逆戻りしようとしています。

母の写真には、戦争の影が見え隠れしています。戦後の貧しさや戦後の発展も映し出されています。
ぼくは、教師だった母の思いを受け継ぎたいと思います。
「日本国憲法を守ろう」
この思いの中に、母の教師としての人生が重なるような気がします。


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Posted by 東芝 弘明