家族について 2006年8月2日(水)

雑感

さだまさしさんの新書版「本気で言いたいことがある」を読んでいる。
この本の第二章は「家族が壊れたのはなぜか?」というタイトルになっている。
さださんは、家族の姿が大きく変わってしまったのは、70年安保闘争以後のようだと書いている。
興味深い論説だと思う。
戦争が終わるまで、日本の社会は、天皇を中心にして家父長的な家という考え方にしばられていた。この哲学は、おそらく明治以降、絶対主義的天皇制が確立していく過程の中で強化され、徹底的に国によって教え込まれていたものだろう。絶対主義的天皇制の社会体制が確立する以前にも、家父長的な考え方は根強く存在したのだと思うが、この考え方をより一層助長したのが、教育勅語や軍人勅諭だったのだと思う。
大日本帝国は、第2次世界大戦で敗北したことによって、天皇が現人神から人間宣言へという流れをたどり、崩壊して日本国となり、民主主義的な一連の改革がなされた。この変化は、従来の価値観を大きく破壊した。
従来の価値観は戦後もまだ生きていたが、戦争に負けたことによって自信もプライドも破壊されていたとし、大転換が起こったのは70年代安保以降だったというのが、さださんの指摘だ。
さださんは、この時に「一家断絶」「親子断絶」が起こったと指摘しているが、同時に「親も子も間違いではなかった」と書き、さらに、
「若く新しい価値観を否定する気はなかったのですが、だからといって僕は人間関係の、ことに家族関係の崩壊を是認することはできなかった」
と書いている。
若く新しい価値観は、従来の家族の姿を破壊したことによって、普遍的な価値を持っていた家族の絆の大切ささえも失わせてしまったということなのかも知れない。
さださんの文章を読みながらぼくはこういうことを考えた。
価値観の大転換。これは、新しい考え方と古い考え方の対立だけで起こったのではなく、金の卵と呼ばれた集団就職に典型的に現れた農村から都市への集中による変化によってもたらされたのではなかろうか。
集団就職した若者は、中学校や高校を卒業したばかりの若者が多かった。こういう人々が、ふるさとを遠く離れ都会で核家族を形成した。この大きな変化が、親子3代の世代が住む大家族を物理的に破壊し、文化の継承を困難にし、家族間の「断絶」(とりわけ空間的、物理的な「断絶」)を助長した。農業中心の国から工業国日本への大きな変化の中で、人口移動が起こり家族の有り様にまで巨大な変化をもたらしたのだ。ぼくにはそう思えてならない。
日本国憲法と教育基本法は、大日本帝国憲法と教育勅語に替わる新しい哲学だった。
戦後、この憲法と教育基本法を守る勢力が日本を建設し、教育をおこなっていれば、高度経済成長期という激動的な変化の中でも、哲学喪失というような状況にはならず、古い因習の破壊による模索と混乱という状況にはならなかったのではなかろうか。
経済的な急成長は、戦前も含めて民衆が育ててきた日本の良さをも破壊した。
日本国憲法と教育基本法は、大日本帝国憲法と教育勅語の否定だったが、それは、戦前から日本国内に厳然と存在し、苦難の中でも発展しつつあった民主的な花の種を開花させるものだった。その意味で、この大転換は、戦前の単なる精算でも総否定でもなかった。
戦後、女性に参政権が与えられ、20歳以上の男女に対して選挙権が与えられた。
教育勅語には、夫婦が相和しとあるが、これは、国民の権利の差を当然視した上での相和だったので、実質的には妻が夫に仕えるというものだった。「女三界に家なし」──女性は全世界に安住できる家がなく、「女性は若いときは親に従い、嫁にいっては夫に従い、老いては子に従うべきもの」とされていた。このような哲学が、国民主権と基本的人権の保障・恒久平和・婦人の参政権の確立という歴史的な変化の中で廃止されたのは、いわば歴史の必然だった。
新しい家族像は、さださんの指摘から30数年が経過してもまだ未確立なままだと思う。
ぼくがいう家族像というのはモデルではない。国民の中にゆるやかに存在する家族による人間関係を形成するモラルのようなものだ。
100組みの家族があれば、100組の具体的な家族像がある。その個性豊かな家族の中にゆるやかに流れるモラルのようなもの──それがぼくのいう家族像だ。
日本国憲法は、人間の基本的人権を高らかに宣言し、相互に尊重しあうことを哲学としている。教育基本法は、この日本国憲法の理想を実現するために人格の完成をめざすとしている。この考え方にもとづく新しい家族の有り様を構築していくことが、戦後の課題だったが、この理想は、日本国憲法を変えたくて仕方のない勢力によってはばまれてきた。同時に教育は、資本主義的な競争にもとづく教育が進められるとともに、教育勅語を哲学にすべきだという勢力によって歪められてきた。
しかし、憲法と教育基本法の理想は、国民の中で、民衆の中で根強く育てられてきた。戦後の多くの運動や裁判は、最高法規である憲法を最大のたたかいの指針として活用され、生かされてきた。教育基本法が歌い上げた教育の理想も、戦後の豊かな教育実践や教育を守る運動の中で育まれてきた。
ここに希望がある。未来への確信がある。
時代は、矛盾をはらみながらも自由と民主主義が開花していく方向に発展している。
男女の平等な結びつきと信頼関係にもとづく家族像。この姿が見える時代がやってくれば、戦前から存在していた家族の人間的なよき絆は再興してくるように思う。
しつけやしきたりの中にも現在に受け継がれるべきいいものがたくさん存在する。文化が継承されず、忘れ去られたものの中に現在に生かされるべきものがある。
そういうものが顧みられ、再興してくる時代は、現在という新しい器の中に古きものを根付かせる営みになる。温故知新。そのときに古き良きものは、さらに光をまして綺麗に輝く。
ぼくはそう信じている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明