eメールの罪と罰

雑感

手紙を一週間間隔で書いていたこともあった。若いから書けたのかも知れない。書き損じたら書き直して、漢字を知らなかったら辞書を引いて(誤字は恥ずかしい)、汚くなったら書き直してというような作業を延々と繰り返し、長くなったら10円切手を追加したりというようなことを積みかさねていた。相手から返事が返ってきたらものすごく嬉しかった。時間の流れは緩やかだった。
感情にまかせて書いたときなどは、次の朝、書いていることがいやになって、捨ててしまったこともある。
せいぜい、1週間に一往復ぐらいのことが精一杯だった。忙しかったら、すぐに返事を書く何てことはできなかった。

電子メールができたときに、パソコン通信も初めてみたが、通信というのは、掲示板に書き込むようなものだったという記憶がある。自分の文章が、かなり多くの人に見られて、コメントが返ってくる、みんなで意見を交換するというようなものだった。変化が起こったのは、インターネットになってからだろう。最初の頃は、個人に対してメールが簡単に送れるようになっても、メールでやり取るする人は限定されていた。それは、パソコン人口が少なかったこと、パソコンをしていてもインターネットに接続している人が少なく、かつ通信速度も遅く、回線に接続するたびに電話料金が発生するというような制約があったからだ。プロバイダー料金が定額になり、どんなに回線につないでもお金が固定的な額以上には必要なくなり、さらにインターネット接続が、モデムを経由しないでも実現できるようになってから、ようやくインターネット人口が増えてきた。
しかし、決定的にかつ劇的に変化を生み出したのは、携帯電話によるメール機能の充実だった。eメールと呼ばれるようになったのはいつの頃からだろう。多くの人が携帯電話を持ち、自由にメールアドレスのやり取りができるようになって、eメールは生活の中に幅をきかせるようになった。電話代よりもはるかに安くつくということが、普及に拍車をかけた。

メールとは郵便物のことだ。どうして電子レターとか、eレターという名前にはならなかったのだろう。
手紙と郵便物には、随分な違いがある。手紙は別名封書と呼ばれる。手紙と同じような文面でもはがきに書いたものは「はがき」と呼ばれて、手紙とは区別されてきた。はがきは、誰でも手に取れば文面を読めるものだが、封書は受取人でないと開封がためらわれる。
これに対し郵便物という名称は、郵便で送られるものすべてを指す。その中には手紙もはがきも小荷物も全部含まれる。手紙には行政などからの封書も含まれるが、どうも手紙という言葉には私信の匂いが強く漂っている。

eメールは、郵便物という意味合いが濃いようだ。ダイレクトメールのようなものがさかんに送られてくるが、そういうたぐいのものは、レターとは呼びがたい。郵便物という一般的な呼び名が付いているeメールは、手紙(レター)とは、かなり隔たっているものなのかも知れない。ただ、郵便物の中には、手紙も含まれるのでeメールが、事実上、手紙のと同じ性格をもつ場合もある。

手紙を出す場合は、手書きなので、書き損じには細心の注意を払い、書き上げても、読み返して間違いがないかを確かめて、ポストに投函することが普通に行われていた。書き上げてからポストに投函するまで、一定の時間も必要だった。この物理的な時間が、推敲の時間でもあった。手書きの手紙は、書体も含めて相手に心を伝える情報が込められていた。選ぶ便せん、選ぶ筆記用具、文字の書き方なども相手に伝わる個性の一つになった。
eメールは、手紙と比べると格段に作成するスピードが速い。書いたらすぐに相手に出せるし、相手からすぐ返事が返ることも多い。活字として相手に伝わるので、手っ取り早く感情を伝えるために絵文字などが発達している。インスタントラーメンのように嬉しい感情や悲しい感情が、文の中や末尾に表現され、それなりに相手に気持ちを伝える道具となっている。これらの道具の人気は高い。

eメールも手紙も、手紙のようにして書かれる場合は、本質的に何も変わらないと思っている。違いをあれこれと上げることにも、あまり意味はない。
大切なのは、eメールを手紙(レター)として書く場合は、手紙を書くという自覚のもと、ていねいに言葉を選び、相手の気持ちを考えて書くべきだということだろう。手紙の文化は、気候の挨拶から始まって相手に気持ちを伝えるときに、さまざまな配慮を行いつつ文章をていねいに書くという形として成り立っていた。
学校で教えなければならないのは、活字で伝わるeメールは、手紙を書く気持ちになって、相手を尊重してていねいに書くことの大切さだろう。人間は、普段、相手とのコミュニケーションを行う場合、視覚や聴覚、嗅覚などをフルに動員して相手と向きあっているので、言葉だけのやり取りをしているようであっても、さまざまな情報を得ながら対応している。「お前はばかか」と言っても相手が柔らかく笑って受け取るケースがものすごく多いのは、話した相手の優しい言葉遣いや話のトーン、笑った顔などなどによって、言葉だけでは判断していないからに他ならない。
手紙は、会って話をする以上に情報が限られてしまうので、普段会っている以上に気を使いながら、文章を書いていたと言うことだ。

eメールでもこのような配慮が行われると、多くのトラブルを避けることは可能になってくる。
文字だけのやり取りが、相手を傷つけることがあるという危険性を十分に知って、メールを送るようにするためには、文字によるキャッチボールが、限られた情報のみの伝達方法になることを自覚してもらう必要がある。文章がうまくならないと、eメールでも気持ちを上手に伝えられない。絵文字を多用すれば、文章の品格が低下することも十分自覚する必要がある。顔文字やデコ文字を活用すれば、相手に思いが届くと思っているのは、ものすごく大きな間違いだろう。自分の気持ちは、文章を通じて伝えるべきであって、絵文字やデコ文字に頼るのは、文章のつたなさをおぎなうという役割があり、これに頼っていたら、いつまでたっても相手に伝わる文章は書けないだろう。
話し言葉やため口で文章を書いているのを見ると、ぼくなどは、何ともいえない嫌な気持ちになる。話し言葉をまったく使うべきではないとは思わないが、文章のすべてがそういう感じになると、読むのを止めたくなる。相手に手紙を書いているという自覚をもって文章を書いて欲しいというような、ぼくのような人間もいると言うことで、文章を書く方がいいと思う。

eメールの恐ろしさは、怒りにまかせて相手を罵倒するようなメールを送ると、そのメールは、かなりの人に転送されて、「このようなひどいメールが来た」という形で広がる可能性が強いということだ。そのようなメールは、保存され、拡散されて広く伝わる。相手への悪罵が、自分に跳ね返ってくるということを自覚しているのであれば、相手を罵倒すればいい。倍返しも10倍返しも自分を中心に体験できる。

大事な用事は、会って話す。電話よりも会うこと。eメールは、情報伝達手段としては便利この上ないものだが、極めて制限された伝達手段だということを深く自覚すること。そうすれば、笑顔も集まる。気持ちを込め、文章を吟味し、相手を思いやりながらメールを書くと、そのメールは手紙に変身する。


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雑感

Posted by 東芝 弘明