佐野廃寺について思うこと

雑感

佐野廃寺のことについて少し書いておきたい。

11月18日の紀の川万葉の里マラソンと同じ日の昼から総合文化会館で「古代のかつらぎとみやこ」という題名のシンポジウムが開催された。このシンポジウムの最大のテーマは佐野廃寺についてのことだった。
実は、かつらぎ町の日本共産党事務所は、佐野廃寺跡の中に建っている。お坊さんの宿舎があったあたりに事務所がある。
廃寺というのは、「廃止された仏教寺院」という意味のようだ。佐野廃寺は廃止された寺院だったのか、何らかの理由によって廃れたのかはよく分からない。
佐野廃寺は、佐屋寺と呼ばれていたようだ。佐屋寺が建立されたのは670年頃だとされている。1340年ほど前の時代、飛鳥時代の後半になる。飛鳥時代は、592年から710年の平城遷都までの118年をさす。この飛鳥時代の中で694年には藤原京に都が移されている。推古天皇の摂政であった聖徳太子の時代のことだ持統天皇の時代のことだ(狭義の飛鳥時代は、592年から694年の藤原遷都までの102年間をさす)。
日本初の女帝であった推古天皇の時代に(天皇による区分を時代だというのはどうも気に入らないが)、皇太子中大兄皇子が即位して天智天皇(在位期間668年2月20日 – 672年1月7日)となったのが668年、その後、天智天皇の息子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇になった時代に佐屋寺は建立されているらしい。
このお寺は、大阪にある四天王寺の伽藍配置の類型にあたるらしい。類型の一つに法起寺式がある。佐野廃寺は法起寺式の伽藍配置になっている。法起寺は奈良県の斑鳩にあり世界遺産に登録されている。仏教公伝が538年だといわれている(諸説あり)。仏教が当時の国家権力によってどのような役割と地位をしめていたのかについて、理解を深めることが佐屋寺を理解する上では欠かせないと思われる。

シンポジウムで最初に記念講演を行ったのは、栄原永遠男氏(大阪市立大学名誉教授)だった。氏の講演は、古代の文献にもとづくものだった。講演では、かつらぎ町は、古代は畿内だったという考え方が示された。同一氏族だと思われる那賀郡と伊都郡は、640年代に現在の伊都郡と那賀郡のところで分断され伊都郡側は畿内、那賀郡は畿外になったのだという。当時、紀の川は重要な貿易のルートだったようだ。飛鳥から和歌山まで、紀の川を下って和歌山に出て行くルートが重視されていた。この貿易ルートによって紀の川筋は栄えたと思われる。和歌山に出ておそらく紀伊水道を北上し、瀬戸内海を渡り九州に出て貿易を行っていたようだ。
しかし、このルートは、大阪への陸路によるルートが開かれるようになって、流れが大きく変わったようだ。推古天皇の時代の遣隋使は、大阪ルートから隋に行っていたのかも知れない。陸路が開かれたということは、土木工事が発達したということも意味するだろう。このルート変更は、後の藤原遷都、平城遷都と大きく関わるのかも知れない。

畿内はやがて橋本市の真土になったという。しかし、古代のかつらぎ町が畿内の西の端だというのは面白かった。この説と佐屋寺がどう関係しているのかは、よく分からない。しかし、この日のシンポジウムの網伸也氏(京都市埋蔵文化財研究所)の講演では、佐屋寺は、お坊さんの宿舎があるので、お寺のまわりには寺田があり、佐屋寺が独立採算で成り立っていた可能性があると指摘された。佐屋寺は、それぞれの建物が建立された時期がかなりはっきりと分かっていて、しかもお坊さんの宿舎もあったという貴重な史跡になっているのだという。
同じような伽藍配置をしている廃寺でもお坊さんの宿舎がないお寺もあるという。当時のお寺は、豪華絢爛なものであり、赤い色が装飾に使われ、仏像などは金箔がほどこされた非常にきらびやかなものだったという。伽藍配置も正面から見た姿や東側、西側から見た姿が重んじられ、道行く人々には、権力の象徴としてその姿を誇示していたのだという。
旅行く人の宿舎のような役割も担っていた可能性もあるらしい(佐屋寺がそういう役割を果たしていたかどうかはよくわからないが)。
佐屋寺が建立された当時は、仏教が国家に積極的に取り入れられた時代にあたるようだ。日本に仏教を受け入れるかどうかについては、古代神道を守ろうとする側と仏教を導入しようとする側の争いがあったという記述がある。

ところで、ぼくたちは、学校で538年は仏教伝来だと習った。しかし、現代は仏教公伝という表現に改められている。それには明確な理由がある。ウキペディアを少し引用しておこう。
「古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと思われる。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)などはその好例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。」
この記述が正確なものなのかどうか、ぼくには判断する知識はないが、倭の時代から渡来人がたくさん日本に来ており、帰化して生活していたというのは興味深い。推古天皇の時代の遣隋使の派遣によって、貿易が盛んに行われたというのは随分違って、それよりも遙か前から貿易は盛んにおこなわれており、仏教の伝来も渡来人によって行われていたというのが正しいと思われる。

シンポジウムの後、網伸也氏に話を聞いた。7世紀後半のお寺は豪華絢爛なものであり、お寺のまわり(おそらく大阪の)には、渡来人がたくさん住んでいたのだという。異国文化の香りの高い国際都市を形成していたというのは面白い。仏教は、異国の高い文明の象徴であり、日本はある時期から積極的にこの文明を取り入れていったというのは間違いないことだと思われる。

かつらぎ町は、神仏習合の地でもあるが、神仏習合になっていった時代は、かなりあとになるように思われる。弘法大師が高野山に根本道場を開いたのは、819年だが、9世紀前半になると神仏習合の状況にあったように思われる。弘法大師が神仏習合を始めて取り入れたのではなくて、すでにそのような傾向にあった中で真言宗もそれを積極的に踏襲したようにも感じる。いずれにしても、佐屋寺が建立された時代と神仏習合は絡んでいないというのが、ぼくの現時点での認識だ。

古代の天皇制の時代に律令制度の確立は、唐などの影響を受けて660年頃から本格化した。大化の改新を画期となすという見方は、近年変更されているようだ。日本が朝鮮に出兵し663年の白村江の戦い(百済復興戦争)で大敗を喫してから国防の充実を図るようになったことと律令体制の確立はかなり深く関係しているように思われる。これを前後してかつらぎ町が畿内の西の端になったというのは興味深い。

こんな話を調べながら書いているときりがない。考古学と文献による歴史との重ね合わせによって、立体的に歴史を把握していく作業は、非常に興味深い。佐屋寺からは、文字が出てきていない。有機物は、ほとんどが朽ち果ててしまう。都のように遺跡が豊富にあり、建物も含めて現代まで文献が重層的に残っているのとは違って、何らかの理由で朽ちてしまった廃寺から時代を読み解くのは、なかなか骨の折れる作業になる。中央の歴史と地方の歴史は随分違う。ぼくたちが住んでいるかつらぎ町が、どのような経済基盤によって成り立っており、どのような氏族が住んでいたのか、都とかつらぎ町の関係がどうであったのか、というテーマは、中央政府の歴史から類推するのは、極めて危険でもある。

歴史では、都と呼んでいるし、古代の天皇制だとも言っているが、この勢力が日本全体を統一していたとはなかなか言えないのではないかと個人的には思っている。古代の天皇制の支配が及んでいた地域とはどれぐらいの範囲なのか、その範囲内にあったとしても、地方の豪族との力関係はどういうものであったのか、という視点も大事だと思われる。逆に言えば、古代の天皇制が、なぜ相対的に大きな力を持ち得たのか、その経済的な基盤は何だったのかという視点から読み解くことも大事だと思う。
日本の今の姿から過去の歴史を考えている人はかなり多いのかも知れない。しかし、中央政府のもとで文字どおり支配が国民の末端まで行き渡ったのは、明治以降だろう。江戸幕府といえども、各藩は独立国だった。言い方を変えれば、江戸時代の日本は合州国だったと思われる。中央政府である江戸幕府は、大きな権力を持ってはいたが、各藩の独立権は強く藩には藩札という独自の貨幣、独自の法律が広く存在していた。日本で本当の意味で中央集権国家が成立したのは、明治以降だと思われる。版籍奉還と廃藩置県をなしえたのは、高度に発達した生産力があってのことだ。経済的な力の発展があってこそ、中央集権国家は成立する。

その点では、古代の天皇制の経済力は弱い。強めるためには、他人を搾取する以外にない。生産力が低いもとで大きな支配力を発揮するためには、奴隷制にならざるを得ない。ではどのような奴隷制度だったのかという点も興味深い。古代の天皇制の時代が、具体的にはどのような社会構造をなしていたのだろうか。支配者と住民の関係が、どのような経済的な関係だったのかという話を土台にして物事を見ていかなければ、その時代がどのような時代だったのかも分からない。
ところで佐屋寺が建立された少し前の時代にあたる推古天皇は女性だった。「日本霊異記」には、佐屋寺が尼寺であったという記述がある。女性の社会的な地位はまだ高かったという点も興味深い。この視点からも新しいものが見えてくるはずだ。何重にも重なる視点で時代を読み解いていけば、その時代にある程度は接近できる。

若い時代に読んだ経済学の本によると、平城京は、唐の都を真似して作られたものであったが、その当時の経済の主流は物々交換だったので、中国から輸入した貨幣は、都でほとんど流通しなかったし、貴族といっても半分は農業を営んで自分の食料を自分で生産していたのが実態だったようだ。また、ウキペディアによれば、大きな川が近くになかったので水不足にも悩まされており、溝に流していた排泄物が流れなかったので衛生的にも問題が生じていたという。
人工的に作られた平城京が長岡京へ遷都され、また平城京に戻ってきたりしたけれど、794年の平安遷都までの84年間しかもたかなったのは、大きな都市を維持するだけの経済基盤がなかったことが、遷都の原因だった可能性がある。
佐屋寺にしてもそうだが、経済の流れ、経済の仕組みから時代を読み解く視点は極めて重要だと思われる。
人間の生活を支えているのは、経済力にほかならない。たとえば、地震が起こって建物が壊れたとしても、余剰生産力があり、蓄えもあれば再興もできるが、地方を支配していた勢力が、再興する力をもっていなければ、転変地変によって支配勢力が崩壊することも十分考えられる。

最後に注意書きです(自己保身でもありますが)。
ここに書いた記述は、シンポジウムの時の記憶とインターネット検索による文献をふまえたものにすぎません。したがって、ぼくの感想の域を出ないものです。間違いなどがたくさんあろうかと思います。したがって、うけうり的にぼくの文章を根拠にするのは、極めて危険です。そういう活用の仕方をして、被害を被ったとしても責任を負いかねます。
事実誤認については正していただければ、ありがたいと思います。よろしくお願いいたします。ただし、この文章の不正確さを理由に手厳しく批判をしていただくような、値打ちのあるものではないことをお断りしておきます。


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Posted by 東芝 弘明