言霊信仰、言葉のもつ力について

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液晶・プラズマテレビの消費電力について、土曜日にしんぶん赤旗が特集記事を書いていた。
第2弾というものだ。この記事は面白いので全文、紹介しておこう。
今後、この問題は、地球温暖化問題とも絡んで、大きな問題になっていくように感じる。
エコポイントとの関係、実際のCO2削減との関係など今後の進展が興味深い。
省エネどころか増エネにエコに逆行、政府の「エコポイント制度」 液晶・プラズマテレビにみる
青空文庫にあった宮本百合子のエッセイをいくつか読んだ。短い文章だったが、しなやかな感性を感じて心がゆったりしてくる。こういう文章を書ける人になりたい。しかし、読んでから数回、このような文章が書けても、次第にそこからはなれ、どうもがさつな文章へと形が変わっていく。文体というものは、その人の心の有り様を映してしまい、文章には人となりがにじんでくるので仕方がないだろう。
心が落ち着いて、物事への感心が真っ直ぐに進み、しかも柔軟に変化していくような感じのときは、宮本百合子のような文章に少しちかづく。
今日は、文章に書くことと言葉の力について書いてみたい。
言葉には力が宿ったり、心根が宿ったりするのを感じることがある。言霊信仰という言葉も浮かんでくる。
人間は、言葉を通じて物事を考える。人の気持ちというものは、なかなか定かではないし、心の本当の状況を見つめていくと、いろんな感情が折り重なったりするので、自分の心であってもなかなか的確には表せないことも多い。
そこで登場してくるのが言葉だろう。人を好きになるときも、言葉が先行するわけではない。なんだか、その人が気になりだして、「あれ、私はこの人のことが気になっている」、というような言葉が生まれる。この言葉によって、自分のなかなか定まらない心情が形になり、気になっているという気持ちが、相手を見るようになり、次第に「もしかしたら好きなのかも知れない」という気持ちになったりする。
このとき、言葉によって気持ちの有り様を考えるので、言葉が気持ちを定めてしまうということも起こりうる。
言葉によって、気持ちに形が作られるということがあるということだろう。
子どもの世界では、最近「うざい」とか「きもい」とか「きしょい」とかいう言葉が流行のようになっている。「あの子、うざい」という言葉をつい言ってしまうことによって、心が言葉によって定まってしまうということがある。
言葉には、そういう力が宿っている。言葉の力というものを考えると、簡単に人を否定するような「うざい」などの言葉を使うことが恐ろしくなる。使っている人は、軽口のようになりポンポン相手を傷つけるような言動をして、「冗談だよ」ということですましている。しかし、当たり前のように「うざい」などの言葉を普段から使っていると、喧嘩になったときも、簡単に、しかも本気で「うざい、死ね」みたいな言葉が出てしまう。
言葉は、人間の心を表す力をもっていることを考えると、簡単に相手の人格を否定するような言葉を口にすべきではないという思いが強くなる。
このような考え方は、「汚い言葉遣いは止めなさい」というような躾とはちがう。言葉によって人間の心が定まったり、言葉によって人間の思いが表現されたりするのだから、もっと心と言葉の関係を大切にしようということだ。
まして、文章に書くという行為は、言葉のもっている力を深くとらえる必要がある。
文章は、形として残る。言葉はその場で消える。消えてしまう言葉であっても、相手を深く傷つけて人間関係が壊れてしまうこともあるのだから、文章に書くという行為にともなう責任の大きさは、深く考える必要があるだろう。
日本人は、どうも議論をしたり、喧嘩をしたりすると相手の人格を否定するようなことも多い。議論を否定することと相手の人格を否定することとは違う。相手の人格を尊重しながら、議論をするということにたけていかないと、議論がへたな日本人という傾向は克服できないのではないだろうか。
意見の対立が人間の対立になるのではなく、意見の対立が、相手の言い分を見極めるものになり、相互理解が進んだり、歩み寄りがおこったりするということがもっとあっていい。
相手の意見を否定しても、相手が考え方をあらためることは少ない。
相手の意見は、相手にとって言葉にして出したものだから、相手の気持ちも込められている。それらの言葉には、力がある。
論争に勝ったからといって、相手の考え方が改まるわけではない。むしろ、自分の考え方がへし折られたら、心の中にわだかまりが残ったりする。
そこがむつかしい。
感情的な議論になったら、落ち着くことも大事になってくる。
言葉がもつ力を深く自覚すること。それは、子どもの世界でも大人の世界でも同じこと。
優しい気持ちを育てたければ、言葉のもつ力と、言葉によって人間の心が定まってくることを深くとらえ直す必要があるだろう。相手を傷つけるような言葉は、いつか、自分にも跳ね返ってくる。相手に対してぶつけた言葉は軽いのに、自分に対して向かってきた言葉はきつく、鋭く、重く、大きい。
自分に投げかけられた言葉の強さが本当にわかるのであれば、相手を傷つける言葉を軽く発していることををあらためて深く考える必要がある。深く傷つけられた経験があるのであれば、言葉の力を再確認するのがいい。
インターネット上の誹謗中傷合戦は、言葉のもつ力が最悪の形で現れたものだろう。お互いが傷つけ合うところに、話しあいの果実は実らない。


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Posted by 東芝 弘明