ブログ炎上で名誉棄損に

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読売新聞の1面にブログの炎上について、警視庁が誹謗中傷した人18人の刑事責任を追及することを決定したと報じられ、社会面でもさらにくわしく炎上の姿を紹介していた。ネット上の匿名性を利用して、直接本人に語れないような誹謗中傷を、非常に軽い気持ちで書く人がいる。
今回の警視庁の方針は、ブログを炎上させる事実無根の誹謗中傷が、名誉棄損行為に当たることを示したものとして注目した。
今日は、人間と文章について考えてみたい。
文章を書く行為というのは、自分と真剣に向きあう行為だと思う。言葉には責任があり、相手に投げかける言葉は、同時に自分を真っ直ぐに射抜く。言葉に真摯に向きあわないと、自分の気持ちが歪んだり崩れたりする。ぼくは、そういう意味で「文は人なり」だと思うし、文には「言霊信仰」のようなものを感じる。文章は合わせ鏡のように自分を映すといってもいい。
文章には、自分なりの真実を込めるべきだろう。人間の認識は、どこまで行っても自分の主観から自由になることはできない。人間は、自分の主観的な認識を通じてしか物事を把握することができない。客観的であろうとする努力は、主観的なフィルターを通じてしか実現しない。この矛盾に満ちたところが面白い。
文章に真実を込めるべきだというのは、厳密にいえば主観的なものに過ぎないが、自分が信じるにたる真実を込める努力をすべきだということだ。
真実と書いて事実と書かないところにも意味がある。
たとえば小説。──これは、フィクションの世界を構築しながら真実を語るという世界。事実を書くこととは趣が違う。しかし、小説は、数多くの真実を語り、人々の心にしみ世界を揺さぶってきた。小説の真実は、事実にも勝るとも劣らない。
事実無根の誹謗中傷というような文章は書きたくない。そういう文章は、自分に突き刺さる。言葉のもつ力が自分の心を破壊する。
もし、誹謗中傷をおこなって、何も感じないとすれば、それはすでに何らかの破たんが自分の中に内包されているのではないだろうか。
感情が高ぶって、論理が飛躍することもあるだろう。文章のいい所は、時間をおいて読み返せば、論理が飛躍していく様を読み取れるところにある。毎日、ブログを書いていると、時間をおいて見直す余裕はない。本当は、書いた文章を4日間ぐらい寝かせた方がいいみたいだ。勢いに任せて書いた文章は、論理が八艘飛びのように言葉と言葉を渡り歩いて上りつめたりする。こういう場合は、非常に心配。心が平常心になっていない現れだ。
最近は感情にまかせて書くということが無くなっているので、八艘飛びのような文章は書いていないように思っているが、いかがだろうか。
繰り返して書いておきたい。
相手の人格を攻撃し、誹謗中傷を重ねるような文章を書くと、それは自分にも突き刺さり、自分の人格をも破壊してしまう。ストレスの発散は、発散以上に醜さのかたまりになって跳ね返ってくる。
文章は形になって残る。自分の醜さの結晶がネット上に残される。それは恐ろしく、かつ悲しいことではなかろうか。


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Posted by 東芝 弘明