笠田小学校の「学力向上実践研究推進事業」の発表に参加して

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冬に向かう雨は冷たい。笠田小学校のグラウンドは、雨の日特有のぬかるんだ状態になっていた。
体育館で受付を済ませると時計の針は1時3分を示していた。
今日は、午後1時から笠田小学校で文部科学省指定の「学力向上実践研究推進事業」(平成20年、21年、22年度)の実践発表会(第2年次)がおこなわれ、2年生と3年生、6年生の公開授業と研究協議が教室で行われ、このあと、全体会(研究経過報告、指導講評)と講演(大谷大学教育福祉学部准教授 岡部恭幸先生)が体育館で行われた。
研究発表のテーマは、「思考力・判断力・表現力の育成のための指導方法、教材の工夫」──算数科を中心に──というものだった。
公開授業は、3年生の木瀬可奈子先生の「重さ」を見させていただいた。
授業のねらいは、1㎏の重さを作ってみようというところにあった。
考えてみると大人でも1㎏の重さをどれだけ認識しているのか、心もとない。日常、重さを量って商売をしている人ぐらいでないと、重さの感覚は身についていないだろう。計りに1㎏のお肉を乗せるということをお肉屋さんに行ってもらうと、かなりの精度で合うものだ。
土木工事の人などは、1トン以上の重さについての感覚が育っていて、そういうものを動かすのにはどういう機械や力が必要なのかよく分かっている。
授業では、砂袋で1㎏の重さを作って、それを手に持って重さの感覚をとらえて、教室内のさまざまなもので1㎏を作ろうという取り組みが行われた。
見た目だけでは、物の重さは分からない。子どもたちは色々なものを組み合わせて1㎏を作り始めた。
「隣の子と交換して重さを量って下さい」
木瀬先生がこう声をかけた。こういうところに授業の工夫を感じた。隣の子と物を交換して計り合うことによって、お互いの確認作業になる。これは、自分の行為が友だちとの確認へと広がる工夫だなと思った。
作業が終わったあと、10分間ぐらいの時間で、自由に1㎏の重さを作る時間も取られていた。これは、色々な重さを量ることによって、くり返し1㎏を確認する仕事になる。
授業のおしまいに、木瀬先生は、算数日記を書きましょうという声かけをして、子どもたちはいっせいに今日習ったことで、分かったことなどを書き始めた。
この算数日記は、3年間の研究事業の中で大谷大学の岡部准教授の指導として取り組まれてきたものらしい。学んだことを文章に書くことで自分の考えが深まるし、分からなかったことも明らかになる。算数日記は、算数と国語の結合としても面白い取り組みだと思った。
わが家の娘が学校から持ち帰ってくる学級通信にも、算数の授業についての作文があったが、それらは、この算数日記そのものだったのだなあということも分かった。
この授業を45分見ながら、小学校時代のことを思い出していた。新城小学校の複式の5年生と6年生の2年間、担任は牧野伸治先生だった。この人の授業は、驚きと発見の連続だった。先生の専門は数学らしかったが、国語も理科も社会も算数も、ほとんど教科書を使わない授業が行われていた。
今から38年前のことだ。
先生の授業は、子どもたちとなぜそうなるのだろうということをいっしょに考えて、討論するところから始まった。子どもの発表に、先生は真剣に驚き、感心した。授業は子どもと先生との間で生き物として作り上げられていた。先生の真剣さと授業の楽しさが38年という歳月を経ても、まだ記憶に鮮明に残っている。
授業の内容を記憶に残しているというのは、不思議でさえある。
中学校、高校の授業の内容がほとんど記憶にないのに、牧野先生の授業だけは、そのシーンが浮かんでくる。
強烈に心に残った映画のシーンは覚えている。強烈に心に残った出来事は覚えているが、先生のいくつかの授業は、子どもだったぼくにとって忘れることのできない感動的な出来事だったのだろう。
重さを自らの感覚としてとらえると、1㎏を作るという行為の中には、驚きや発見がある。国語辞典が1㎏だったり、ノートを4冊積んだら1㎏になったり縄跳びのひもとサッカーボールで1㎏だったり。
ここには、教師が気づかなかった1㎏がきっとあるはずだ。
(産業界は、重さに非常に敏感で、携帯電話のMAXは○○g、ぼくのMacBookProはノートパソコンは2.49㎏、この日、岡部先生がプレゼンで扱っていたMacBookAirは1.36㎏とか。──すごいよねアップルは。いかに軽くするかでしのぎを削っている)
子どもたちが、工夫して発見した1㎏をクラスのみんなで共有するためにも、教師が驚いたり発見したりして、いっしょに感動することが大事だろう。
尾木直樹さんは、かつらぎ町で行われた講演で、かつて教育にとって一番大事なものは、批判力だと語ったことがある。
批判力=全ては疑いうるという精神。
もっと平たく言えば、なぜと問う心。
子どもたちの認識の中に入って、たくさんの不思議、たくさんの疑問、たくさんの発見を見いだして、いっしょに謎解きの旅をする。授業の中でこういう取り組みが行われていけば、それは推理小説のように、ミステリーのように、探検小説のように、知への冒険のように面白い。
授業が終わってから研究協議の時間になり、隣の教室に移動して受け答えが始まった。
ぼくは、先生方の研究会なので、質問も感想も言わずに耳を傾けた。先生方の研究の貴重な時間を奪うのは良くない。
話を聞いていると、司会の先生から指名された方の質問に驚かされた。
「教科書では、1㎏を作ってみようという考え方がないのに、それが授業のねらいとして取り組まれていたのはどうしてですか」
こういう内容だった。
ここに集団の教材研究の努力があると感じた。
全体会での岡部先生の講演は非常に楽しかったし、面白かった。
話の中に少しだけ帰納と演繹という概念が出てきた。子どもたちの「わかりなおし」は帰納なんだという話だった。具体的な事物の中に共通する法則を見つけ、それを繰り返して確認する、これが帰納だ。
帰納という方法は、科学者が研究の中で、気の遠くなるようなくり返しをおこない、少しずつ条件を変えていき、それでも法則性が貫かれていることを確認していく作業だ。
講演の中に紙を使って2等辺三角形を作ってみようという授業を行った実践が紹介されたが、色々な紙を使って2等辺三角形を作れることをくり返し確認する行為は、まさに帰納的な方法で、確認していく作業だといえる。
帰納という方法は、どこまで行ってもこれが法則だというところにはたどり着かない方法論だが、この方法をできるだけ多く体験的に行うことによって、演繹的な方法が理解できる。法則から具体的な事物を認識するという演繹は、実は帰納という作業が豊にあってこそ理解できるものだろう。
帰納と演繹という概念と関係を理解しているだけで、ずいぶん教師の役に立つだろうな、と話を聞きながら思った。
教育実践の感覚を磨くためには、哲学の勉強が必要なのではないか。
これは、教育の門外漢であるぼくの、勝手な認識だ。
議員の活動でも批判的精神は重要だ。常識だと思われている事柄に分け入って、認識し直すためには、批判的精神が欠かせない。なぜそうなるのか。という疑問や問題意識が、物事を理解する上で一番重要なものになる。
問題意識のないところに認識の発展はない。
一般質問の準備でテーマを決めると、まずはできるだけ広く情報を収集し文献を読む。もちろん、質問テーマを決めるときには、すでにかなりの問題意識をもっている。大事なのは、文献を読む中で問題意識を変化させていくことだ。この変化がまた面白い。問題意識の変化に認識の発展も付随する。
いつも、調べていくと物事には、発見と驚き、感動がある。
この発見と驚き、感動が、そのまま一般質問の組み立ての柱になってくる。ぼくの質問は、この、自分にとっての新しい発見が軸になって組み立っていく。
質問の中に発見や驚きがあるから、聞いている人にとっても新鮮に映る。話の展開が鮮やかに、鮮明に進むのは、この驚きや発見に支えられている。一般質問の準備そのものが、まさに知の冒険というような側面をもっている。
文献による取材とともに現場に立つことも重視している。現場には現場の感覚とともに、現場に行かなければ分からない発見がある。
自分にとって面白く、発見と驚き、感動がなければ、人の心は動かない。
今日の笠田小学校の研究事業は面白かった。こういう知的刺激は自分を少しだけ新しくしてくれる。
追記して書いておくべきだと思うのは、研究事業という行為は日常的ではないということだ。研究事業のための教材研究に割かれた時間は、教師の方々が共有した大切な時間だが、このような積み重ねが、研究事業が終了したあとも継続されるのかどうかを考えると、大きな疑問が生じてくる。
文部科学省が指定した研究事業があるから、多忙な時間を割いて教材研究がおこなわれていく。それは、多分に発表のための研究という側面がついて回っている。
今回の2年目の研究発表のために作成された冊子2冊、作られたプレゼンテーション1つ。これだけでも学校の負担はかなり大きい。
研究発表なしの研究事業というものを認めていってほしいし、たえず大学教授の助言指導というものを受けれる環境こそつくってほしいと感じる。
学校で、日常的に自然に教師間の教材研究が、基本的には勤務時間内におこなわれ、夏休みや春休みなどを利用して、自分たちの教材研究が、耕されて豊かに進むような環境をつくってほしいと感じる。
教育の営みは、教師個人の力量にかかっているが、しかし、それは学校の中の教師集団が、自由に闊達に、時には個々の教育観をたたかわせたりしながら作り上げていく環境を必要としている。
教育委員会への最大の注文は、学校事務を大きく減らして、さまざまな事業を数値化して報告するようなことを止めて、学校現場に研究の自由を与えてほしいということだ。非日常的な研究事業がどんなに豊かであっても、それは、かなり無理をして全速力で短距離を走るようなもの。
学校は、子どもたちの日常の生活の場なので、日常的に必要なのは、教師にとっても児童にとっても、瞬発力を発揮する短距離走という名の無酸素運動ではなく(もちろん、無酸素運動なしには成長もないとは思うが)、休憩したり走ったりする有酸素運動こそ重要だろう。
学校の環境をさまざまな事務でがんじがらめにしておいて、さらに教育研究事業を行わせても、なかなか成果は身につかない。
日常の生活の中で、むりなく自由に研究できる環境をつくることが、教育委員会の仕事だろう。教育委員会は、教育内容に対して講評という形でコミットメントするより、教育の自由を保障する教育環境の改善と確立にこそ力を注ぐべきだろう。
資本主義の王様であるアメリカには、国家共通の教科書は存在しないという。日本の教育は、学習指導要領に根拠をもった教科書にもとづいて、教育体系が組まれているが、本当に教師が自主的に教育を把握し直すためには、アメリカのような方向を指向することが必要なのだと思う。
こういう方向に日本の教育を切り替えて行くには、長い時間と巨大な発想の転換が必要になる。
長くなった。松浦恭久先生の研究経過報告は、研究全体の様子を分かりやすく伝えて簡潔で良かった。
最後にこれを付け加えておこう。


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Posted by 東芝 弘明