知性と理性

雑感

具体的な知識を博学的に知っているというのは、多くの人に感心される力になるのは間違いない。しかし、ただ単に知識を多面的に知っているだけではあんまり意味がない。世の中に溢れている知識には、まったく相反する矛盾したものが存在する。ただ単に知識を理解していくだけでは、何が正しくて何が間違っているのかという、生き方の指針に関わる価値判断というものが備わらない。

3月25日のNewsにこういうものがあった。

【ニューヨーク共同】
 米IT大手マイクロソフトは24日、インターネット上で一般人らと会話をしながら発達する 人工知能(AI)の実験を中止したと明らかにした。
不適切な受け答えを教え込まれたため「ヒトラーは間違っていない」といった発言をするようになったという。
 同社が開発したAIは「Tay(テイ)」と名付けられ、短文投稿サイトのツイッターに23日に登場した。
ツイッターで会話を重ねるうちに差別的な発言を繰り返すようになり、24日に中止された。
 マイクロソフトの広報担当者はAIを修正すると説明した。修正を終え次第、実験を再開するとみられる。

かつて哲学者の真下信一さん(故人)は、『学問と人生』という本の中で、ドイツの哲学者ニコラウス・クザーヌスの「知性は淫売婦のようなもの。誰とでも寝る」という言葉を引いたことがある。知性は、価値判断を持たない。知性を積み重ねても知性だけでは、知性をコントロールできない。Microsoftの人工知能が、ヒトラーを礼賛するようになったというNewsは、まさに知性の怖さを再現するようなものだった。

知性をコントロールするためには理性が必要だというのが真下さんの主張だった。理性とは何か。真下さんはこう書いている。
「理性とは、知恵の力のことを言う。理性とは、全体的な統一と総合の能力であり、精神の力のことだ。もっと言うならば、理想を立てる力、この理想に向けて現実をととのえ、導いて行く力と言っても良いだろう」
ところで真下さんは、哲学というのは、もともとは人間の学問全体をさしていたことを指摘し、部分学である科学とは違うということを書いたこともある。科学に別れていく前の、ジャンル分けができていなかった時代の研究者は、すべて哲学者だった。ダビンチにしてもニュートンにしても、実に博学だったのは、学問探究にジャンル分けがなかったからだ。それが自然に対する研究の進展に伴って、自然科学が成立し、やがて社会科学が確立して科の学である科学の領域が専門的に発達してきた。その結果、学問全体を占めていた哲学の領域は狭くなっていった。
木でいうならば、木の幹にあたるのが哲学であり、枝葉が細分化された科学だろう。根底には哲学が座り、枝葉を扱う科学は、太い幹によって支えられる。
理性と知性の関係も木の幹と枝葉の関係にある。では哲学とは何なのか。本当に哲学が理性を司るものなのか。これが非常に大切になる。

人間の歴史は、階級のなかった非常に長い時代を経て、階級に分裂し身分ができ、奴隷制、封建制という時代を経て資本主義へと発展した。資本主義に移行するときに、フランスでは自由と平等と博愛という3つのスローガンが掲げられ身分制度に終止符を打った(その後100年間は王政復古やナポレオンの台頭、侵略戦争、共和制への転換等々大変だったけれど)。日本では、明治維新によって資本主義に足を踏み入れたが、明治維新の政治的権力を握った勢力が、徳川幕府と同じ封建的な領主を中心とする勢力だったので、王政復古という形をとった。日本は、長く政治的権力の外にあった天皇を中心に据えた絶対主義的な社会制度に移行したため、四民平等とはいうものの、華族という身分が残り、天皇という絶対的な権限(主権は天皇にあった)をもった存在による社会体制になった。江戸時代の士農工商という身分制度は廃止されたが、資本主義のもとでも半ば封建的な地主制度が農村の仕組みになり、それを土台として資本主義が発達するという道をたどった。
しかし、第2次世界大戦をへて、国連が誕生し、世界人権宣言が発せられ、日本国では日本国憲法が誕生し、国民主権が宣言され、基本的人権が人間の犯すことのできない永久の権利として宣言される憲法が誕生した。全世界は、侵略戦争を犯罪として位置づけるようになり、戦後を通じて差別のない平和な地球をつくる方向に動いている。第2次世界大戦の後、最も深刻な戦争が展開されたベトナム戦争の教訓から、アジアには平和の流れが強まり、紛争を戦争にしないASEANという流れが誕生した。

哲学は、この人類の価値ある進歩の流れにたつものであり、真下さんがいうように学問全体の幹として、理性の体現者になるべきなのだと思う。そのためには、全体的な統一と総合力が哲学には求められる。人類が試練を経て到達してきた考え方を基礎にして理性を体現するものが哲学なのだろう。「理性とは、知恵の力のことを言う。理性とは、全体的な統一と総合の能力であり、精神の力のことだ。もっと言うならば、理想を立てる力、この理想に向けて現実をととのえ、導いて行く力と言っても良いだろう」という言葉は、まさに哲学に求められている精神に他ならない。

日本国憲法は、もちろん絶対に変えるべきでない最上の憲法というものではない(もちろん、今は変えるべき時期ではない)。しかし、戦後国づくりの理想を憲法におき、国民主権と国家主権、恒久平和、基本的人権、議会制民主主義、地方自治などの諸原則を打ち立てた憲法は、哲学が理想とした人類の価値あるものを基礎にしている。この憲法の精神を土台に据えて国をつくること、科学を発展させることは、哲学を基本において国をつくることと深く重なっている。
5000万人を超える人々の犠牲によって、生み出された日本国憲法は、国連憲章や世界人権宣言の流れを受け継いで発展させたものだった。第2次世界大戦で、最後までファシズムの国として戦争をたたかったこの日本に日本国憲法が誕生したのは偶然ではない。ここには人類の意思が強く反映した。人類史の価値ある到達点が、日本国憲法という具体的な形をとったということだろう。

憲法の精神を学びながら、科の学である科学や知識を身につけていくことが、知識や科学を理性に奉仕させる道だと思われる。私たちは、そういう国に生まれてきた。この憲法を憎み、改正を求めてきた流れの中心に反理性主義がある。天皇を元首にし、基本的人権に制限をかける憲法を守る義務を負わせる自民党の憲法改正草案は、人類が築き上げてきた価値ある原則への挑戦になっている。それは知性を悪魔に奉仕させる道でさえある。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明