答えが明らかでない問題に取り組むのが学問だ
娘は高校3年生。受験をめざして勉強を始めている。この娘のことを意識しながら、『中学生からの大学講義』(ちくまポリマー新書)を2冊読んだ。できればこの本のシリーズぐらいは、高校3年生の間に読んでほしいと思う。中学生向けに書かれたというこの本は、高校生であっても十分に難しいものになっている。しかし、このシリーズは、小学校と中学校、高校における学びとは違う本物の学びについて、教えてくれる本だろう。
大学受験に向けた学校の学びと、社会の中にある学びとの決定的な違いは、試験に出る問題の全ては答えのある問題によって作られているが、社会の中にある問題には、なかなか確定した答えがないというところにある。なぜ高校などの試験問題には、全て答えがあるのだろう。それは簡単だ。作られている問題が、学習指導要領という基準の下で、定められた知識(確定している知識)を問うからだ。具体的な試験問題は、まず答えがあって問題を作っているので100%解けるし、一つの答えしかないように作っている。最近は、考え方を問うような問題もあるが、それはまだ少数に過ぎない。圧倒的多数の問題は、確定した事実に基づく知識を問うている。
実は、歴史学というものは、新しい資料や歴史的な事実が明らかになると、たえず書き換えられるという側面を持っている。過去の古い事柄については、資料が圧倒的に少ないので、新しい資料が発見されると教科書の記述にも変化が生じてくる。比較的新しい歴史の問題でも、隠されていた資料が明らかになると教科書の記述を変えなければならないことが生じる。ぼくたちが子どもの頃習っていた教科書の記述と現在の教科書の記述が違っているのは、こういうことによる。しかし、その時々の試験では、教科書で確定的に書かれている「事実」を書けば、正解が与えられる。
国語の試験では面白いことが発生する。
大阪大学の総長だった鷲田清一氏は、『何のために「学ぶ」のか』(中学生からの大学講義1 ちくまポリマー新書)で次のように書いている。
私の書いた文章もよくマークシート式の試験に使われていて、「著者はこの段落で何を言いたいのか次の四つの中から選べ。」などといった問題になる。私もこれに挑戦してみるのだが、自分の文章なのに解くことができないことがある。四つの選択肢のうち、二つには私のいいたいことが書かれている。自分でも選びきれないが、そんな問題に対して皆さんはちゃんと一つ、私の代わりに確定してくれるわけだ。
試験を作成した人が、4つの選択肢のうち1つが正しいと解釈し、その選択のみに正解を与えることで試験問題は成り立っている。書いた本人が正解を選べない試験問題というのは何だろう。不思議な世界だともいえる。
国語などでは、文章を深読みする人は、試験で正答することが難しい。文藝評論家が、徹底的に作家の軌跡をたどり、誰も気付かなかった視点をその作家の作品から読み取って、評論を書くなどというのは、大学受験用の文章の読み方ではない。
過去の事実でしかも確定した事実(そう判断して教科書に載っているもの)について、その知識が正しいかどうか、数学でいえば、必ず解のある問題だけに絞って試験を作るという形で試験問題は成り立っている。しかし、現実の社会に横たわっている問題のほとんどは、未来に対する選択肢を問うものが多い。現在進行形の問題を解くというのは、まだ確定していないような状況のもとで、不確定な情報にもとづいて判断するということになる。過去の問題についても、歴史学にしても文学にしても、踏み込んでいけば、明らかになっていない事実や資料不足の問題にものすごくたくさん直面する。研究となると、まずは資料収集からことが始まる。本になっている資料もあれば、自分で丹念に集めないとつかみ所のない問題である場合も多い。確定している事実をもとに踏み込んで調べていくという行為であっても、分からないことの方が圧倒的に多いことが見えてくる。
高校生に対する政治教育という場合、例えば政策問題を議論し始めると、途端に何が正しいのかがなかなか明らかにならない。正解があるのかといえば、正解はないともいえる。日本共産党は、増税に現時点では反対しているが、累進課税に戻すプロセスの中では、国民全体に対し、社会保障の充実をめざして増税することを明らかにしている。国民合意を形成しつつ、将来は、税の再配分については応分の負担を国民に求めるとしている。これは一つの選択肢であって、日本共産党の見通しが正しいのかどうかという点でいえば、不確定な事実にもとづく未来でとりうる政策の一つということになる。
ヨーロッパは、非課税も多いが消費税率が高く、税の負担も重い国がある。しかし、国民のために税の再配分率が高いので国民の満足度が高い国がある。高福祉、高負担と呼ばれるような仕組みがある。ヨーロッパの文脈と日本の文脈とでは、議論の土台が違う。未来の選択肢という問題でいえば、国民がそういう方法を是とするのであれば、間違いではないということになる。
高校生における政治教育というのは、こういう政策選択についても議論をするということを含むものになる。この教育は、今までの試験問題のように答えが必ず1つあるというような教育とは、次元を異にする。
答えが一つではない問題を政治教育ははらんでいくのだが、実は、答えの確定しない問題に対して探究するということは、学問の本当の姿でもある。
生きる力を培うのであれば、高校の教育そのものを社会の中における不確定な問題に対する判断という分野にまで広げることが求められている。そういう方向に学校教育を変化させていかないと、本当の学力、問題を自分の力で解き明かしていくような力は身につかない。
『中学生からの大学講義』は、1つの答えしかない問題ばかり解かされている高校生にとっては、大きな視野を広げてくれる本になっている。ある教授は、分かりにくい問題を分かりにくいまま考え続け、追求し答えを見いだしていく努力が大切だと説いている。目からウロコが落ちる。
学問とは何かを紐解きながら、答えのある問題を解くという大学受験に立ち向かうことは大切だと思われる。大学に入れば、本当の学問を学べる。そういう希望を持つことも大事だと思う。
ではどうやって娘にこれらの本を読んでもらうか。これがむつかしい。
確かに大学入試においては、世の中にあまり役立たないことをしています。入試で分かる能力は記憶力だけです。まあ~記憶力は悪いよりいい方がいいので、日本の大学は伝統的にその入試方式を採用してきました。
僕の娘も今年大学に入学したんだけど、大学の入試で感じるたのは昔に比べてやさしくなった。そりゃそうです。子供の数が半分になって、大学の定員が増えてるんだから当然です。東大が推薦入試を採用するのもうなずける。おまけにその東大の推薦入試のセンター試験正解率80%がラインだそうで、低いなぁ~・・・と思いました。昔なら東大は共通一次試験90%の正解率でも合格は五分五分だった。
和歌山大学なんかでも国立の最下位クラスだったけど、それでも難しかった試験なら同志社大学と同程度だった。
今はなぁ~選びさえしなければ、どこかの大学には必ず入学できます。
記憶力は、学力の一つであり優れた記憶力は、情報の分析にも役に立つし、物事の本質をつかむ上で武器にもなります。でも記憶力は、コンピューターにはかないません。確定した情報を瞬時に確実に検索できる力もコンピューターの方が上です。
しかし、関連のないように見える問題に連関を見つけ出して、新しい答えを見いだす能力は、人間固有のものです。コンピューターの力を借りれば、膨大な計算や分析をすすめる力になります。
小中高でも、学問とは何か、学ぶとは何かについて記憶力を問うだけの学習から前に進むべきだと思います。小中高の学習の仕方の弊害もあると思います。
>小中高でも、学問とは何か、学ぶとは何かについて記憶力を問うだけの学習から前に進むべきだと思います。小中高の学習の仕方の弊害もあると思います。
こういうのは、確かにかっこのいい目標ですが、はて?具体的にどんなに教育を変えればいいの?また大学入試制度は現状存在するのが事実であり、それをどう変更するという問題にも関係する。
東芝さんも、共産党の吉井さんだったっけ?京大というところを強調することがある。こころの底に学歴コンプレックス的な考えがある証拠です。
ただ、最近のグローバル化でどこの大学出身か?というのはあまり意味を持たなくなってきていて、大学で何を学んだか?が大事です。
現在、学歴が幅を利かせているのが、公務員と医学界ぐらいでしょう?グローバル化の進んだ世界では、学歴は大した意味を持たなくなている。
学校教育をどう変えるのかというのは、一筋縄ではいかない問題ですが、人類が解明してきた科学の到達点は極めて小さく、わからないことの方がはるかに大きいのだということを繰り返し明らかにしつつ、現時点で分かっていることを学ぼう、科学の到達点は小さいけれど、人類が解明してきたことは、一人の人間が学びきれないほど豊かだということを機会あるごとに具体的に教えることが大切だと思います。
小中高を通じて、ものの見方考え方の基本、事物に対する研究の仕方の基本について、身に付けることも大事だと思います。
こういう学習の基本、学問の基本を学ぶことと、学校における試験のあり方は、かなり次元の違うものなので、学問の研究者である大学教授とともに試験のあり方を集団で研究する必要があります。
現在の日本の教育は、知識の伝達とその把握力を確かめるものです。現在の学習スタイルと、学問の基本的スタイルのどこがどう違うのか。この点を明らかにしていけば、試験のあり方を変えることができるのではないかと思います。
そういう努力の積み重ねの中で、暗記力を問うのではなく、思考力を問う試験にするために習った範囲の教科書の持ち込みOKにして、試験範囲の中から考える力、分析する力、総合し推論する力を問う記述式の試験に移行するのも、ひとつの方法ではないかと思います。
私の方は、孫娘ですが、6月ぐらいまでに「進学」か「就職」の選択が迫ってくるとか言っていました。
祖母・祖父が意見を言えることはないですが、いままで共に歩んできたのですから、いい道すじを選択してほしいですね。
18歳になりますが、9月ですから「参議院選挙」には投票できません・・・残念です。
日本の学校教育で高校時代に自分の進路を決めて、大学受験や進学を考えるというのは、本当は乱暴ですよね。自分のことを振り返ると、職業観も具体的な進学の目的も明らかではありませんでした。
極めて曖昧なまま進路選択をしていたと思います。
そういう中での進路選択なので、少しでも具体的に物事を考えられるように支援することが大事ですね。目標を持ってがんばれればいいのですが、その道に進めないケースもあるので第二の道についてのアドバイスも大事なことだと思います。
ぼくの場合、17歳のとき、町議会議員になってかつらぎ町と深く関わるなんてことは、全く想像していませんでした。
自分で進路を選んだのかといえば、そんなことはとても言えないと思います。ぼくのようにして人生が成り立っている人は、かなり多いと思います。
>暗記力を問うのではなく、思考力を問う試験にするために習った範囲の教科書の持ち込みOKにして、試験範囲の中から考える力、分析する力、総合し推論する力を問う記述式の試験に移行するのも、ひとつの方法ではないかと思います。
入試本質を勘違いしています。入試というのは、学生を選ぶために差をつけるものです。東芝さんの主張する入試は、記憶力を思考力に置き換えただけで、何も変わっていません。
日本社会における、いい大学というか有名在学信仰がなくならない限り、入試の問題は存続し続けます。東芝さんの「共産党の吉井さんが、京大卒で賢いと強調する」そういう考えが国民になくならない限り、学歴社会はなくならないのです。
で・・・共産党の吉井さんは、賢いのですか?京大を出ているから賢いの?共産党の委員長は東大卒だから賢いの?・・・笑。そこが本質的な入試の問題です。日本国民の心の中が変わらないと入試問題はなくならない。
大学が学歴社会と関係がないようになり、学びたい者が大学に行くということになれば、現在よりも大学生は少なくなるかも知れません。
茂木健一郎さんが、本の中で、東大教授の友人が、アメリカに行き東大だということを強調したが、アメリカの大学教授には意味が通じなかったこと、教授としても内容のない人だったので話し相手にほとんどなってもらえなかったエピソードを書いていました。どの大学を出たとか、どの大学の教授なのかが評価の対象ではなく、話をしていて刺激的な話ができるかどうかだと書いていました。
大学の学歴が評価を決めるところから脱皮した社会になれば、入試の方法も変わるでしょうね。競走させて相対的に「勉強のできる」人を選ぶのではなく、大学で何を学びたいのかによって大学を選べるように変わると思います。
そういう方向に向かうためには、学力とは何か、学ぶとは何かという原点からの組み立てを変える努力も必要だと思います。「中学生のための大学講義」は、本当の学びを教えてくれる本になっています。刺激的な本ですね。