商品経済が破壊する文化と個性
小学4年生のときに従兄が岡山県倉敷市に引っ越ししたので、遊びにいったことがある。まだ山陽新幹線が開通していなかった時代だ。従兄の家で何日過ごしたのか覚えていない。春休みだったような気がする。そのときにぼくは初めてインスタントラーメンの存在やスーパーマーケットの存在を知った。当時の倉敷市は、3市が合併して2年という時期だったようだ。人口はおそらく37万4000人程度だったようだが、今はそこからさらに10万人増えて47万5400人を超えている。
ぼくは、従兄と2人海側の方へ遊びにいったことがある。農作業をしていたおばちゃん2人に声をかけられたが、いったいこの2人が何を話しかけてきたのか、言葉がまったく分からなかった。
議員になって、全国各地に視察に行くが、言葉が通じないということは全くない。日本人は、いつの間にか日本語をバイリンガルで話せるようになっている。関西弁と標準語、東北弁と標準語というように。日本人が地元の言葉とよそ行きの言葉の2つを操れるようになったのは、テレビの力だろう。関西弁は、明石家さんまさんのおかげで準標準語のようになっているので、関西弁で話をしてもかなり全国的にも通用すると思われる。
圧倒的多数の人が、よそ行き語として標準語をしゃべれるようになったのは、標準語が商品流通の手段として日本全国に浸透したということでもある。市場経済が日本の隅々まで、毛細血管に血液が行き届くように浸透し、全ての商品が時間と空間を超えるかのように行きわたるようになった。商品流通の潤滑油のように使われたのが標準語だろう。もちろん、国語教育による徹底という側面もあったとは思われるが、テレビの影響の方が遙かに浸透力が高かったのではないだろうか。
商品流通の武器ともなった標準語の力もあって、商品経済が徹底的に発達してくると、それぞれの地域にあった文化や食生活が徹底的に破壊される。日本の都市の風景が、どこに行っても同じようなチェーン店で覆い尽くされているように、商品を売るための仕組みは、街の景色まで個性のないものにしてしまった。こんなことを書いているぼくも、知らない土地に行き、ローソンやファミマやセブンイレブンがあると安心して入っていくのは、商品経済に身も心も支配されていることを意味する。
大量生産と商品の均一化は、留まることを知らない。資本主義が発達すると商品の種類も数も非常に多面的に発展していくように思っている人も多いだろう。しかし、それはおそらく間違っている。競走による独占化が進み、それの帰結として寡占化が進んでいくと、車が一つの典型であるように、異なる会社による部品の共有、ボディの共有のようなことが起こる。電機にもこの波は押し寄せている。パーソナルコンピューターのCPUは、もうほとんどインテル一色になっている。インテルインサイドのコマーシャルがほとんどなくなったのは、インテルが全てをほぼ掌握したからに他ならない。
最も個性的な生産物というのは、個人のオーダーによる注文生産だろう(その場合も、基本点は同じで細部を少しだけ個人の好みに合わせるというものが多い)。資本主義社会の下で個性豊かな生産物を実現するためには、自営業者の豊かな復活が必要になる。一人ひとりのために注文に応じて商品を作るような自営業者を豊かに育成しないと、個性豊かな文化は守れない。
個性豊かな文化の世界を描いた『繕い裁つ人』の原作本が届いた。










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