橋本高校のPTA総会

雑感

橋本高校のグラウンドは、思った以上に狭かった。体育館に入るとまだ誰も椅子に座っていなかった。ど真ん中の列から一筋だけはずれ、前から4番目ぐらいの椅子に腰掛けて、資料に目を通すことにした。PTA総会の前に行われる進学のための講演会のプレゼン用の資料が手元にあったので、メガネをかけて全てに目を通すことにした。
そうしているうちに時間が来て、講演が始まった。
大学入試は、もう思っている以上に時間がないという話が強調された。事前に目を通していたので話は全部見えていた。

総会にも最後まで出席した。講演中に前を見ると同級生のS君夫婦が座っていたのに気がついた。5分間の休憩に入り、目と目が合った。総会のときにS君は、ぼくの隣に腰掛けた。説明を受けながら決算や予算の数字を見るのは楽しい。こういう表を見ると一体どういう特徴のある会計なのか読み取りたくなる。物事は比較検討から始まるので、まずは大きな支出に注目する。PTA総会の一般会計に当たる会計の内、半分近くを占めているのが人件費だった。
高校のPTA会計を見るのは初めてだったが、小中学校と比べると学校の運営をスムーズに運ぶためにPTAの会計は、非常に大きな比重を占めていた。義務教育でなくなると、教育関係の予算というのは、かなりの部分を保護者が負担するようになっているようだ。小中学校では、自治体が当然の如く組んでいる予算も、高校になると保護者負担になっていた。
一家庭当たりの負担は、それでもまだ小さい。少子化とはいえ、高校はまだ一定の人数が確保されているので、保護者負担もまだ軽いと言える。

総会の最後は、役員人事だった。規約を改正して、保護者ではなくなった会長のK君が、引き続き会長を引き受けることが報告された。ご苦労さまなことだと思う。保護者の中から次の会長を決められないという事態は、小学校・中学校でも同じようだ。個人をバラバラにするような傾向には二面性がある。一つは個人を重んじる、個性を尊重するということ。しかし、もう一つは人間の連帯や協力を断ち切ってバラバラにするということ。戦後、受験競争という仕組みを「競争教育」の中で組織してきた日本の教育体系は、子どもたちを競走の中に置いてバラバラにしてきた。人間の連帯を断ち切るような傾向は、教育の世界からも生まれてきたといえる。PTAがうまく運営できない状況は、小学校にも中学校にも存在する。それは、いわば人間社会の繁栄だが、同時に積み重ねられてきた教育の反映でもある。

どうも学校が語る子どものあり方というのは、建前的で白々しいものがある。「思考力、判断力、表現力」という話を聞いていて白々しく思うのは、そこに批判的精神がないからだろう。批判的という言葉は、日本語的にはどうも評判が悪い。否定的とか相手を非難するようなニュアンスがある。しかし、批判の本当の姿は、物事を肯定的に理解しつつ、同時にその物事の問題点、課題などを見つけ、具体的事実の中に発展の契機を見いだすような思考方法だ。
批判的思考は、英語ではクリティカル・シンキングという言葉になる。クリティカル・シンキングには、ドライなイメージがある。「思考力、判断力、表現力」というものを磨こうと思えば、対象に対して「なぜ」と問いかけることがどうしても必要になる。つまり、クリティカル・シンキングなしには、思考力も判断力も表現力も育たないということだ。「すべては疑いうる」というように、物事に対して問いを立てることのできる思考を基礎に据えないと、「思考力、判断力、表現力」は育たない。総会の席上、こういうことを考えていた。

ここまで書いて考えたことがある。18歳選挙権のことだ。18歳選挙権の話は、今回の総会で全く語られなかったが、未来に対する政策判断を学ぶというジャンルに踏み込んでいけば、批判力を基礎にして「思考力、判断力、表現力」を培う力になっていく。政策判断というのは、これが絶対に正しいという解がない。まだ未確定なもの、未来の選択肢に対して判断するというのが政策だから、どうしても分からない部分が含まれる。「思考力、判断力、表現力」を問う場合、政策についての議論は、まさにうってつけの教材になる。全ての物事に問いを立てることのできるものの見方考え方を培うことは、自覚した生徒を育てることにつながるが、それは、同時に自分たちの生活している足場から問いを立てる力をもった若者を育てることにもつながる。それは当然、政治や社会に対しても、自分の意見を持って立ち上がる人間をも育てることになる。
若者は、理想を胸に社会に立ち向かう存在であるところに若者たるゆえんがある。それは、未来に生きる若者たちこそが、次の時代を担うからだ。現在の政治や社会に対して、問いを立て問題だと感じるならば、率直に意見を言い、改善を図る。これこそが健全な社会の一つの姿だろう。未来の時間が大人よりも多い若い世代に対して、未来を託すのは普通の姿ではないだろうか。
「思考力、判断力、表現力」を求めるのであれば、若者に社会の変革の願いを託さなければならない。従順な人間になることを願いながら「思考力、判断力、表現力」を持って欲しいというのは、一つの矛盾になる。学内で政治活動を禁止し、政治的集会やデモに参加することに対して、届け出制を採用するような態度をとりつつ、「思考力、判断力、表現力」を身につけてほしいというのは、かなり深い矛盾を内包している。和歌山県教委は、報道によれば、高校生の政治集会への参加について、届け出制をとるかどうかは各学校に任せるとしている。橋本高校はどうなっているのだろう。18歳選挙権と自主、自立。これはなかなか深めがいのあるテーマではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明