子どもの貧困をテーマに調べてみると

雑感

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新しいメンバーによる議会広報編集特別委員会が開かれた。11月1日発行の「議会だよりかつらぎ」は、20ページだてになる。経験のあるメンバーと初めての人とが組みを組んで紙面レイアウトを作成することになった。

かつらぎ町における貧困率は、沖縄県が行った方法によって算出すことができる。明日、沖縄県に電話を入れて取材したい。子どもの貧困問題を質問しやすくなったのは、法律が成立し、大綱が閣議決定されたことによる。都道府県のほとんど(和歌山県が唯一まだ策定されていない)で子どもの貧困対策が作られている。こういう到達点にあるので、子どもの貧困とは何かという最も肝心な基本点で論争は起こらない状態にある。少し前までは、日本には、子どもの貧困などという状況はないというようなかみ合わない答弁が出てくるような状態にあった。そういう議論は、過去のものになっている。

相対的貧困という考え方が、かつらぎ町行政の中には、まだ十分に伝わっていないが、この概念についても疑問の余地なく理解してもらえる状態にある。これは、OECDによる経済的な貧困についての算出方法が、日本においても採用され、これに基づいて日本政府が子どもの貧困率を発表したことが大きい。誰が学んでも、見解の相違が生まれるような状況にないというのが到達点なので質問に入りやすいといえる。

いろいろなことを学ぶと認識の地平が開かれる。新しい地平は、自分を新たな視点に導いてくれる。ここが面白い。社会保障の選別主義と普遍主義の違いという視点を得たことの意味は大きかった。子どもの施策を考えるときに、所得制限を設けて対策を講じることを全面的には否定しないが、それよりも全ての子どもに対する対策を講じることの方が意味が大きいということを発見したのは収穫だった。子どもの医療費無料化が所得制限なしに実施されていることの意味は大きいということだ。
子どもの貧困対策が、自己責任論を乗り越えるものになっていることも新たな発見だった。親に養育の責任があるという立場に立ったままでは、結局は親の態度が最大の障害になって、子どもの貧困状態を改善できなくなる。どんな親の元でも子どもの貧困そのものに着目して、根絶を目指すという視点をもったことによって、子どもの貧困問題を社会の問題に据えることができるようになった。そもそも、「子どもの貧困」という視点でこの問題を捉えられるようになった意義が大きい。

議員は、幸せな職業だと思う。現実の政治や社会の問題を解決したいと願い、真剣に自分の前に打ち立てたテーマを追及していくと、従来の自分の認識をあらためてくれる新しい地平が見えてくる。そういうことが、議会のたびに繰り返される。真剣に物事を追求すれば、たえず自分を新鮮な地点に登らせてくれる。こういう職業というのも珍しい。
お金儲けのために議員を目指し、権力をもった方々と人間関係を深め、自分の野望とさまざまな業界の利益を追求するのに魅力を感じている政治屋さんも数多く存在するだろう。
日本の再生が戦前回帰にあると信じ、日本の侵略戦争を否定し、戦争できる国に戻すことが日本人の誇りを取り戻す道だと信じて、政治を動かそうとしている人も現れてきた。しかし、国民主権の時代、議員に求められているのは、政治や経済や社会の改善にある。物事を研究し、事実を追及して改善を求めるところに魅力がある職業なのに、そこに情熱を感じない議員が存在しているところに日本の政治の腐敗がある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明