義務脳と権利脳
地球温暖化をテーマにした講演会に参加した。講師は、ドイツに活動拠点をおく(正確かどうか)谷口たかひささん。話は非常に面白かった。
事実を知ったら自分のできることをしようという提案だったが、心理学を研究してきただけに、人間の行動とものの見方考え方の機微に触れる話だった。話の中に日本の教育は義務は教えるが権利は教えないという話があり、興味深かった。日本の子どもの頭の中は、義務脳になっており、ヨーロッパの子どもたちは権利脳になっているという話だった。
義務脳とは、してはならないこととしなければならないことに脳が支配されている状態をいい、権利脳とは、当然人間としてしてはならないこと、自分でしなければならないことはあるものの、頭の中に自分ができることしていいことが多くを占めている状態だということだ。ヨーロッパでは、人間の権利を具体的に学ぶ中で、人間の自由と人間がしていいことを学ぶようになっている。義務脳と権利脳との違いはかなり大きい。
以下は谷口さんの講演の要約ではない。講師の谷口さんの話を聞いて、ぼくがその延長線上で自由に考えたことだ。
どうして日本の子どもたちが義務脳になっているのか。それは「義務は教えるが権利を教えないからだ」というだけでなく、義務ばかりを教えるような環境や仕組み、メカニズムがあるからだと、ぼくは話を聞きながら思った。
日本の学校の中には、村落共同体が失ってしまった「掟」が厳然として残っており、それが「ルール」として子どもに押しつけられている。日本の学校の中にある事細かな「ルール」は日本の学校の「文化」だともいえる。この「文化」が「同調圧力」の根源になっており、この「文化」によって、教師も含め教育委員会や文部科学省は、知らず知らずのうちに「義務ばかりを教えて権利を教えない」という教育体系を作り上げるに至っている。ほとんどの教員はこの中に巻き込まれている。村落共同体は崩壊したのに、日本の学校やさまざまな組織の中には、強烈に村落共同体が再生して維持されている例がある。これを「世間」と呼ぶ人もいる。それが同調圧力という空気をつくり忖度を生み出している。
この「掟」は、中学校になると「校則」という形になって子どもたちを襲ってくる。
わがかつらぎ町の例を引こう。厳密に言えば、かつらぎ町の笠田中学校と妙寺中学校には「校則」はない。あるのは「生徒心得」だ。「校則」というのであれば、このルールを変える手続きがあってしかるべきだが、笠田中学校と妙寺中学校にあるのは「生徒心得」であり「校則」ではないので、生徒によって「生徒心得」を変える手続きは存在しない。「生徒心得」を改廃する権利は、全て教員集団に委ねられている。しかし改正のルールが生徒に存在しないというのは、生徒にとっては「掟」に等しい。
以前、一般質問で「生徒心得」を子ども自身によって変えられるようルールを確立すべきだと質問すると、教育長は「そこまで必要はない」と答弁し、変えたいときは子どもたちが意見を出せば、学校はそれを受け入れるという意味の答弁を行った。
子どもたちを縛っているルールを子ども自身で変えることができないというのは、「義務だけを教えて権利を教えない」ということではないだろうか。
しかも生徒を縛っている「掟」は、教員の判断だけで増える。学級でも増えるし、生徒指導のルールとしても増える。子どもたちの承認はいらない。場合によっては、担任が学級に提起するだけでも守るべきルールは増える。教師は「今日から○○についてはこうしてください」と言えばいいだけだ。おそらく現在の状況では、生徒を縛る「掟」がどれだけあるのか、校長先生ですら理解してないだろう。
もし「生徒会規則」という形で「校則」が制定されていれば、教員が自由に「校則」を増やすことはできなくなる。教員が増やすことを提案する権利を生徒会会則に謳わなければ、教員は提案すらできなくなる。こういう方向に進むべきだろう。そうならないと権利を学べない。やがては、日本の教育から校則なるものを撤廃して、必要最小限度のルールを学級で話し合って決めるようにすればいいと思っている。まず必要なのは、校則の廃止と新しい仕組みの確立だろう。子どもの権利条約を生かして、子どもの自己決定権を保障する形で新しいルールを作り上げてほしい。時間がかかるかも知れないが、こういう転換が日本の学校には求められている。
しかし、日本の学校教育の最大の問題は、校則にあるのではない。
子どもと教師を縛り付けている最も大きなメカニズムは、競争を外部から組織している受験システムにある。勉強のできない子どもたちは、受験システムから落ちこぼれているのではない。受験というメカニズムは、勉強のできない子どもたちから、自由な未来を根源的に奪うという役割を果たしている。受験システムから落ちこぼれているようにみえながら、勉強のできない子どもたちは、最も深刻に、最も直接的に、このシステムによって未来を剥奪され、破壊されていると言っていいだろう。受験システムから全ての子どもは逃れられない。教員も逃れられない。
谷口さんは、子どもは他人と比べられたら最も傷つくと言っていた。日本の教育は、最も罪なことを小学校に進学する途端に、執拗に繰り返し行っている。テストによる評価から始まって、他人と比較されながら教育を受けている。このことを通じて、多くの子どもたちは、義務脳に陥っているし、自己肯定感を徹底的に奪われている。フィンランドもデンマークもほとんどテストを実施しない。子どもたちを徹底的に評価することが、子どもの成長にとってすべきでないことを国が知っているということだろう。評価の罪の深さに気がつかないと、日本の教育は転換できない。
和歌山県は、高校の再編計画の中で、さらに競争を組織して、普通科高校に2つだけ特任高校を作って、この特任高校に難関大学への進学という使命を背負わせてようとしている。今でさえ地獄なのに地獄の釜の蓋を開けて、逆さづりをするようなことになる。
許しがたい。
>和歌山県は、高校の再編計画の中で、さらに競争を組織して、普通科高校に2つだけ特任高校を作って、この特任高校に難関大学への進学という使命を背負わせてようとしている。今でさえ地獄なのに地獄の釜の蓋を開けて、逆さづりをするようなことになる。
許しがたい。
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まだ、このようなたわ言を・・・なぁ~。科学は間違いを認めることから始まる教えているのに・・・笑。
京都の堀川高校で教えてもらったのでは?高校の学力格差は仕方ないのですよ。それが正しいことは証明されている。日本共産党は学習しないのか?と思ってしまう。
京都の高校入試の歴史を知らないのですか?堀川高校の奇跡ですよ・・・奇跡じゃなく入試制度を変更した効果ですが(笑)
そこに絡むのではなくて、義務脳のところに反応して下さいよ。こういう義務脳のような状態を子どもにつくっているかぎり、日本の若者は伸びないと思いますが。このくびきを断ち切って、自主的にものを考えられる人間へと前進するのはなかなか大変です。反応するのなら、ここの問題ではないですか。
「義務脳のところ」は、東芝さんの個人的哲学に属する内容です。
正しいとか、間違いだとか言う内容ではありません。ただ・・・ぼくはそういう考えはできませんが・・・笑。
最後の部分は、教育行政に影響を及ぼしかねない。だから間違っていると意見しただけです。
日本の競争教育が、人間を傷つけているし、それでは人間のもっている力を引き出せない。もういい加減受験競争という外的な圧力で学力を引き上げることをやめるべきだと思います。アクティブラーニングや自分の頭でものを考えて答えにたどり着く教育が推進されはじめていますが、これを推し進めていくと日本の受験競争の体制にぶち当たります。受験体制を壊さないと、問題意識を持って、自分で物事を探求し、批判的に知識や考え方を身につけていく、本来の学力は身につかないと思います。
残念ながら、東芝さんの考えには反対です。