差異を重視する

雑感

自分にとって未知のもので、人類にとって既知のものを分析する上で何を大事にすればいいのか。
分析と言っても抽象的でよく分からないという人も多いだろう。社会制度の場合、制度はいろいろな要素から成り立っているので、その制度を構成している要素(概念語が多い)の一つ一つの内容をきちんと把握することが分析する力を与えてくれる。
議員は、予算書とにらめっこして、質疑を準備している。どうやって予算書から重要な情報を読み取るのか。予算書の一番右端に並んでいるのは予算の金額なので数字が桁を合わせて縦に並んでいることになる。この数字の背景には、職員による労働がある。給料の合計額の欄があるとそこには何人の職員の給料が掲載されているのかということであり、超過勤務手当という欄に掲載されている金額は、残業代についての予算ということになる。
数字の背景には、すべて具体的な仕事があるので、この予算によってどういう風に仕事がなされているのかという具体的で生々しい実態が数字の裏に張り付いている。抽象的にしか見えない数字を生々しくつかみたいのであれば、職員に詳しく聞く必要がある。そのときに大切にしているのは、どれだけイメージ豊かに仕事の内容を把握できるのかどうかだ。職員の説明を聞きながら具体的な姿を思い浮かべ、そのイメージがリアルになるよう質問を重ねて行く。予算がどのように執行されているのかを深く知るためには、現場に行って話を聞くことが重要になる。予算書に載っているすべてのことを理解するためには、現場に行かなければならないが、膨大な自治体の仕事のすべてを把握することは、どうしても限界がある。問題があっても、問題を発見できずに見逃してしまうことが多いのは、やむを得ないとも言える。
行政は、仕事をしているとうまく行かなかったり、トラブルに遭遇したり、問題を解決できなかったりして、予算を執行できなくなることもある。そこにもリアルな経過が横たわる。

数字の整列のように見える予算書の中から、自分なりに問題点を発見していく上で何が一つの重要なきっかけになるのかといえば、それは比較検討だといえる。何と比較検討するのか。まずは前年度の予算との比較をすればいい。例えば電話代が30万円計上されていたのに20万円になっていて、他の予算の所でも軒並み電話代が3分の2ぐらいに圧縮されていたら、予算節減のために電話代を抑制して予算計上したのか、それとも普通の固定電話をIP電話に切り替えて、電話代を節約したのか、それとも現実性はないのに電話代などのところで経費を小さく見せて予算書を整えたのか、何らかの具体的な理由が存在する。
予算書は、前年度と同じように数字が並んでいるだけのように見えるが、前年度の予算書と比較検討するだけで、大幅に予算が削減されているものが必ず存在する。事業実績に基づいて予算を縮小した場合もあれば、制度の変更によって、事業の対象者が減って予算が変更された場合もある。たとえば仮に数字の変化としては、100万円が60万円になっただけに見えるが、そこには具体的な変化が内在してるということだ。
この場合、まずは数字上は100万円と60万円の差にしか見えない。当年度の予算だけを見ていれば、この変化には気がつかない。前年度の予算書との比較をして初めて変化が分かる。
数字上の100万円と60万円、ここには差異がある。分析を何から始めるべきかといえば、比較検討からだと答える。比較検討したときに重視するのは差異だ。差異。目の前に無色透明な全く歪みのない大きな人間の身長ほどのガラスが空中に浮いているとしよう。歪みがなければ、目の前にガラスがあるのかどうかは分からない。このガラスにテニスボールぐらいの赤いシールが貼られていたらどうだろう。人は容易に目の前にガラスがあることに気がつくのではないだろうか。透明なガラスと赤いシールを貼ったガラス。ここには明らかな差異がある。

事物の研究は比較検討から始まり、差異に注目するところから始まる。ぼくは、調査を始めるときに一番重視しているのは、比較検討と差異だといっていい。比較検討は、経年の変化を調べることもあれば、他の自治体との比較検討であったりもする。差異が発見できたら、当然どうして違うのかということを探究して行く。ここから次第に認識が深まっていく。地方自治体の仕事は、基本的に法律や政令、条例によって成り立っている。したがって条例との関係で制度がどう動いているのかも比較検討の重要な視点になる。条例の規定や法律の規定、制令などの規定を調べていくと、履行されていないものも見えてきたり、条例からの逸脱が発見できたりする。条例からの逸脱を発見できれば、指摘によって是正を勝ち取れることが見えてくる。
比較検討と差異を重視して分析をはじめる。このことを重視するだけで分析への道が大きく開けてくる。

自分の認識が事実によって変更されると、そこには感動と発見があると書いた。このことがなかなかできない人がいる。新たな事実に対し柔軟になれるかどうか。根本的に横たわっているのは、観念論か唯物論かの違いだろう。自分の問題意識を重視する人の中には、新しい事実に直面しても、なかなか考えを改められない人がいる。自分の主観によって、都合のいい事実だけを採用し、自分にとって都合の悪い事実には目を向けない傾向をもった人がいる。これは認識上の観念論だといっていい。
唯物論は、人間の認識というものは、客観的な事物の反映によって形成されていることを認める。徹底した唯物論者は、新しい事実、新しい変化によって認識を置きかえなければならない場合、自分の認識を変化させる。自分の認識と事実との関係で、たえず事実を重視し認識を変化させるという訓練を重ねて行けば、新しい、自分にとって未知のものを探究して行く過程が喜びに満ちたものに変化する。
ぼくの一般質問の核は、調査によって新しく得た発見と感動によって組み立っている。この発見と感動がなければ、質問を通じて事態を変化させることは難しい。自分にとって新しい発見と喜びがあってこそ、展開する論理に説得力が出て、相手にもそれが伝わる。テーマを決めて徹底的に調べる。ここに無限の楽しさがある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明