哲学のすすめ

雑感

午後、1時15分頃から佐用町議会の全員が議会運営と議員定数や議員報酬について視察に来られたのでかつらぎ町議会全員で対応した。視察は1時間40分ほどとなった。佐用町は、平成の合併の中でできた町で、人口や財政規模はかつらぎ町とほぼ同じだった。面積がかつらぎ町の倍ほどあるので、標準財政規模はかつらぎ町よりも少し大きかった。

終わってから議会だよりのことで事務局と打ち合わせをし、そのあと議長と話し合った。溝北議長は、たえず新しい情報を手に入れ、いろいろなことを考えている人なので、話をしていると面白い。町政に対する見方でも一致していることが多い。自分の頭で物を考える人は、たえず新しい情報をインプットしつつ、刺激に反応するようにして、いろいろなことを考えている。

議長が努力しているようなことを、より一層効果的に行うためには、哲学の学習をすればいいとぼくは思っている。人間の意識というものは、外界からの反応によって生まれている。これが唯物論的な考え方だ。
外界からの刺激に対する反応は、無機物でも有機物でも起こっている。有機物、つまり生命のあるもののばあい、外界からの反応は、能動的に行われている。人間の外界に対する反応も、能動的に行われているが、この能動的な反応をさらに積極的に行うためには、自分が行動しながら外界からの刺激を積極的に受け入れることが必要になる。自分で現場に行って動き、いろいろなことを積極的に把握するなかで、新しい発見を手に入れることができる。自分で積極的にまわりのことから刺激を得て、それを自分の中に取り入れようとしている人と、漫然と捉えている人との差はすごく大きい。
生物の外界に対する反応は能動的だという哲学の一般論を、自分の新たな認識論の中に生かすというようなことを知っているのと知っていないのとでは差が出てくる。こういうことを多くの人は、経験則的に理解している人が多い。それでも全然正しいし、いいと思うが、経験則的に身につけたことの意味を、哲学的に把握し直せば、さらに自分の行動原理にまでその経験則を高めることができるとぼくは思っている。

人間の意識は、その人の人間性が根底にあってできているのではなく、外界からの刺激によって小さい頃から積み重なってきたものであり、人間の中に何らかの意識のコア、つまり魂のようなものがあって、それによって人間が形成されているというものではない。人間の意識の奥底に分け入っていくとあるのは、未分化な混沌とした状況しかないと思っている。脳は、人間が意識する前に既に意識下で判断しているということが明らかになっている。人間の日常的な行動は、70%ほどは無意識のうちに処理されていることも明らかになりつつある。これは、外界からの刺激を、脳を含む人間のさまざまな機関が刺激を受けて反応しているからに他ならない。したがって自分探しの旅を意識の中に求めて行くのは、あまり意味がない。自分探しのために世界一周をする方がよほどいい。歩いて体験していくなかで自分というものを見つける旅なら意味がある。それは自分の内部への旅ではなく、外部の刺激に自分がどう反応するかによって、新しい自分を発見するというようなものだ。

自分を前向きに変化させたいのであれば、外界に向かって一生懸命働きかけながら物事を考えるということが求められる。意識改革は、多くの場合、意識の変化からではなく、自分たちのまわりの仕組みを組み替えたり、新たに生み出したりするなかで起こる。外界を変化させる実践の中で意識の本当の変革が起こる。
もちろん、どのような改革を行うべきなのか、現状をよく分析して変革のための方針を立てるところから実践は始まる。新しい捉え方、新しい意識なしには変革は起こらないが、それは出発における動機付けであって、実践前の最初の方針は、どんなことがあっても貫くようなものではなくて、人間が実践するための「導きの糸」のようなものだ。
この考え方で行けば、PDCAサイクルというのは、柔軟性に欠けると言うことが見えてくる。PDCAサイクルが小さいサイクルなのか、大きいサイクルなのかによって、その活用の仕方は変わるだろう。サイクルが大きい場合、PDCAは現実に合わなくなる。サイクルが時間的に長すぎる場合、プランから総括をして次のアクションに移るスパンが長すぎる。そうではなくて、「導きの糸」から実践を起こし、実践の中から学んだことによって、最初の「導きの糸」を補強したり改善したりするほうが、はるかに柔軟で豊かなものになる。PDCAがいろいろな形で言われているが、「明確にこれがPDCAのサイクルです」みたいに明示されないのは、現実とPDCAサイクルとが合わないからに他ならない。

最初の計画である「導きの糸」は曖昧であったりおよそであったりしていいとは思わない。徹底的な研究と精査による「導きの糸」というものが、実践の中で豊かに変化する。こういうイメージが大事になる。徹底的な研究と精査は、毎日の努力の中で培われる。日々、培ってきたものによって物事を判断し、その判断にもとづいて行動を起こす。この繰り返しによって、「導きの糸」は鍛えられる。

自分の中に考え方の豊かな補助線を持つためには、学ぶことが必要になる。新たな自分なりの発見が、自分のものの見方を豊かにする。一を知れば10を知るような知見が、自分の中に引き出しとして豊かにあれば、いろいろな出来事に対する自分の中の「導きの糸」は豊かになる。

同時に学びは、経験主義の克服につながる。人は成功体験にしがみつく。しかしその「成功体験」は、自分が意識していない条件、環境、時代の中でダイナミックに動いている仕組み、人間の意識の変化等々に実は深く左右されている。時代と時間を超越した成功体験なんてない。自分があのときにこうしたからうまくいったということを行動の指針にすると、それは悪しき経験主義にすぐ転化する。そのことを知っているのと知っていないのとでは雲泥の差がある。

自分のものの見方考え方を豊かにしたいのであれば、哲学を学ぶ必要がある。ぼくが薦めたい哲学の考え方は唯物論と弁証法だ。この2つのものの見方考え方は、客観的世界の現実の物質の存在の仕方、物質の運動の仕方、その中で生まれる人間の意識の運動と変化等々を、事実に即して把握する努力に等しい。
なぜそう言い切れるのか。答えは簡単。物質は唯物論的にかつ弁証法的に存在しているからに他ならない。この物質から刺激を受けて生み出されてくる人間の意識も、客観的世界の唯物論的で弁証法的な運動を反映して、同じような傾向をもつ。

自然界は、一つの物の中に相反する2つの傾向を合わせ持っている。ここには対立や矛盾がある。それを反映して人間の意識の中にも相反する対立や矛盾が内包されている。「人はいいことをしながら悪いことをする」という平易な言い方が、かなり事実に近いのは、唯物論的で弁証法的なものごとの反映でもある。

一つの物の中にある相反する2つの傾向。これが複雑に絡み合っているのが現実だ。この複雑に絡み合っている現実に分け入って、真理を探究すす旅は面白い。


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雑感

Posted by 東芝 弘明