新書版100冊読めば何かが変わる

雑感

昨日書いた「哲学のすすめ」は、書いていることが難しくなった。自分の考えていることに新たな視点を付け加えないと、自分の考えていることを客観視できない。自分の視野を広げるためには、新しい情報によって、自分の考えとの対話、比較を行わないと、自分自身の考え方は発展しない。言いたいことの一つはそういうことだった。

自分の考えには、思い込みや決めつけがある。それはすべての人にある。ここから離陸するためには、自分の考えに対して新たな視点で見直す作業が必要になる。一番いい情報は本にある。丁寧に書かれた「本」に勝る情報はない。インターネットだけではそうはならない。本を読む意味は、自己の考え方に対して、本から批判してもらうというところにある。本を読まない人は、自分の思い込みから離陸できないだろう。

このことを知ってもらうだけでも意味がある。マルクスは自分自身の生き方の根底に「すべては疑いうる」「すべては証明されなければならない」という視点を置いていた。この人は、この考え方を端的に表す言葉として「すべてを疑え」という言葉を愛していた。多くの人は、溢れる情報をそのまま受け取って「こういう情報があるからこうだ」という傾向がある。しかしそこには吟味がない。得た情報を自分なりに検証しながら、正しいかどうかを判断し、それを積み重ねないと、自分の頭で物事を考えるということができなくなる。

たとえば、福島原発の処理水問題。希釈すれば安全だと国は言っている。しかし、この論理は、放射性物質に対し有効性があるのかどうか。専門家が発言しているので耳を傾ける必要がある。政府がそう言っているから正しいのではなく、そこには科学的な根拠があるかどうか。これが大切だ。
放射性物質は、原子なので水で薄めても成分が希釈されることはない。水にいれても原子は原子のままで「薄まる」ことはない。トリチウムが生物の体内に取り込まれると、遺伝子の中にある水素と置き換わり、崩壊していくときに出される放射線で遺伝子が傷つけられる。これは何にも変わらない。希釈すれば安全だという話は、放射性物質の場合、成り立たない。こういうことを見抜けないと、自分の頭で物事を考えることにはつながらない。

そういうものの見方考え方を自分の中に培う努力をすれば、物事を立体的に捉えられるようになる。こういうものの見方考え方を多面的にできるようになる点で哲学を学ぶ意味は大きい。

日常的にこういうことを繰り返しているので、一般質問を組み立てるときは、1時間という短い時間だけれど、なぜそうなるのかということを解き明かしながら、質問を展開することになる。聞いている人が、なるほどそうだと思えるように論理を展開するためには、調査して調べた結果、新しい発見が必要になる。発見したことが質問の核になる。驚きや発見のある質問は楽しい。

そういう生き方は面白い。多くの専門家は、自分の頭で考えている人が圧倒的に多いので、現象に出会ったら本質がどこにあるのかを見抜けるような力をもっている。類は友を呼ぶ。自分の頭で柔軟に物事を考えている人は、そういう人に出会うと嬉しい。話が多方面に深まっていく。そういう会話にならない人との話は面白くない。

自分はどのような生き方をしているのか。ここに書いていることに触手が働くのか。
もしぼくが今日書いたことを読んでも、何も触発されるものがなかったり共感する気持ちが湧かない場合は心配だ。そういう人には、まず新書版を100冊買って読むのをおすすめする。触発されない人は、おそらくインプットが決定的に足りないということだ。多くの本を読んでいくと、必ず何らかの発見がある。自分の頭で物事を考えるようになりたいのであれば、ここからはじめるのがいい。そう思う。


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雑感

Posted by 東芝 弘明