内気で控えめで穏やかに歴史を学ぶ

雑感

一般質問の準備のために、読みかけていた「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子)を読み切った。この本は読んで良かった本になった。
第2次世界大戦に至る戦争への道が、実証的な資料を読み解く中で明らかにされている。高校生に対して5日間の特別講義としておこなわれ、1年半の編集作業を経て上梓された本だった。日本国憲法がなぜ誕生したのか、満州事変から太平洋戦争に至る戦争が、どのようなものだったかが明らかにされている。
少し長くなるが、この本の後書きの終わりの部分を引用しておきたい。

(……略)歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本に関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的惹句(じゃっく)のものが少なくありません。
 しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉(えぐ)る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。
 私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例から類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
 そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。

この後書きは、歴史を学ぶことの意味を柔らかく語るものになっている。第2次世界大戦は、5000万人とも6000万人ともいわれる人々の命を奪った戦争だった。アジア・太平洋戦争では、日本国民310万人、アジア諸国民2000万人の命が奪われた。「日本がおこなった戦争は正しかった」「あの戦争はアジアの解放のための戦争だった」という主張が声高に叫ばれているが、このおびただしい人々の命の尊さを考えると、そんな風に簡単に単純に戦争を描いていいのだろうかという疑問が湧く。
正しいという人は、2000万人の犠牲は何だったのか、日本人310万人の犠牲は何だったのか、という問いに答えてほしい。
日本政府は、英霊という言葉を使って、戦後の平和の礎になったといういい方をする。このいい方は、声高ではないが、正しい戦争の尊い犠牲という意味が込められている。しかし、「自存自衛(=?)」の戦争に敗北してはじめて日本は平和になった。この事実は動かしがたい。日本が戦争を仕掛けなかったら310万人の犠牲も2000万人の犠牲もなかった。そうではないだろうか。

ぼくは日本国憲法を守りたいと思っている人間の一人だ。尊い命の犠牲の上に日本人ははじめて国民主権と恒久平和、基本的人権を手にした。戦争放棄は犠牲になったアジアの人々と日本人に対する約束事だった。この誓いを変えることは許されない。
あのような歴史をたどった国だからこそ憲法9条が生まれ、憲法25条が生まれた。尊い命の結晶が日本国憲法に入っている。憲法を作った1年後に憲法を変えたいと願った勢力に、この憲法を渡してはならない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明