民主主義の基本は個人の尊厳の尊重にある

雑感,哲学

「民主主義の対義語は社会主義・共産主義じゃないよね」
「そうだよ。資本主義は必ずしも民主主義と親和性があるわけではない」
問いかけに僕はそう答えた。
「民主主義=多数決でもない」
「そうだね」
といいながら民主主義とは何かを考え始めた。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
という言葉がある(これは、ヴォルテールの言葉だとされていたが、どうも違うらしい。ややこしいので今回はヴォルテールの言葉として活用する)。この言葉を導きの糸として考えてみたい。
意見を主張する権利は命をかけても守るというのは、結局、個人の人格や尊厳をその意見も含めて守るということだろう。民主主義のもっとも基本的な原理は、日本国憲法でいえば第13条にある。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
幸福追求権とも言われるが、冒頭に書かれている「すべて国民は、個人として尊重される」という点に民主主義の神髄がある。個人の尊厳を否定されなことを民主主義の根底に据えるべきであって、ヴォルテールの「(意見を)主張する権利は命をかけて守る」というのは、個人の尊厳の尊重として捉え直したい。
意見を主張する権利を命がけで守るのは、国民同士だけではなく、まず何よりもこの原則を守らなければならないのは国家権力である。国家が個人の尊厳を踏みにじると、その国の民主主義は重大な危機に陥る。香港では現実に今、これが起こっている(国民の尊厳を否定するような国は社会主義でない)。

日本人の一般的傾向として、「個人の尊厳を守る」ということがなかなかできない。組織の利益が優先されたり、国民同士の議論でも、意見の違い=相手の人格否定に直結したりする。「お母さんはあなたをそんな子に育てた覚えはありません」「なんていけない子なの」「あんたはなっていない」などという言い方は、すべて相手の人格(人権)を否定している。
どうして、こういうことになるんだろうか。
日本語は、一人称が豊かに存在するところに特徴がある。一人称が豊かに存在するというのは、相手との人間関係で言葉を多様に選んでいることを意味する。普段「俺」という言葉で自分を表現している人間が、社長の前に立って挨拶をするときに、「俺」という言葉を使うだろうか。「使うよ」という人は、社会人としてマナーをわきまえられないということになるだろう。おそらく「自分は」とか「わたくしは」とかいう言葉になる。間違っても封建時代の「拙者」という表現は使わないだろう。時代とともに言葉は変わってきたが、日本には豊かな一人称が存在しており、人々はこれをほとんど無意識のうちに使い分けている。

自分の親を表現するときも、言葉は使い分けられる。「おかあさん」「おとうさん」「ママ」「パパ」をあらたまった挨拶の中で使うことははばかられる。「母」「父」という形が普通だろう。こういう事情は英語とはずいぶん違う。英語は一人称はIしかない。

日本の言語構造は、結局日本人同士の人間関係や社会のあり方と深くつながっている。こういう言語構造をもっている国は、日本以外にもあると思われるが、こういう仕組みのある国は、「この発言は一体誰の発言なのか」「誰が言ったのか」ということが際だったものになる。発言には個人の顔がまとわりつく。つまり発言にあたかも個人が乗り移っているかのように、どこまでも個人がつきまとう。

人間関係がたえず意識され、「自分の立場でこういう発言を行ったら非難される」という意識が強いのは、発言に個人がまとわりついてくるからだ。こうなってくると「発言=その人そのもの」みたいなことになって、発言に対する批判は、その人の人間性への攻撃、否定みたいなことになってくる。これが日本人の議論を感情的なものにしている。意見の違いがあると最終的には口論のようになって、議論をしたら人間関係が壊れてしまうみたいなことになる。

会議を民主的に運営したいのであれば、相手の人格を否定してはならない。対立しているのは意見であって人間ではない。「お前の人間性を疑う」とか「そこにあなたの思想が現れている」とかいうような議論をすると、どんな人間でも頭にくる。発言している人は、気がついていないだろうが、批判=人格否定という形になっている。英語は、個人の発言がすぐにitに置き換えられていくので、議論になっているテーマが浮き彫りになってきて、事実と論理についての議論になりやすいのだという。社長が発言したら日本はそれで終わり、社長に意見をするなどもってのほか、ということになるが、英語の世界では、社長の発言であっても、その発言の内容にもとづく議論が行われる傾向にある。itに置き換わることによって、議論が議論として展開される。

日本で民主主義を発展させるためには、一番身近なところで言えば、会議のあり方を変える必要があるということだろう。相手の尊厳を否定しない、人格を攻撃しないことをたえず意識しながら、議論になってるテーマについて意見交換を行い、意見を深める訓練が必要になる。誰が言ったということが問題なのではなくて、議論の中身が問題、議論のテーマが問題なので、意見を交換する中で意見が変わっていくのは当たり前、もしくは意見が変化して当然。そのために意見交換をしているのだ、というような認識が必要になる。

「自分がテーマに対してAを選択したんだから、今日の議論ではAを貫かないとおかしなことになる」というい思いはあるだろうけれど、この意見は、自分の意見に自分がこだわっているということだろう。
これも結局は、自分の意見=自分の人格という捉え方だ。会議は、相手の脳みそを借りて意見交換を行って新しいものを生み出そうとする営みなので、最初Aだった意見が議論を通じてBになっていいということだ。「お前、言っていたこととちがうやん」などという考え方で会議に臨むのは、根本的に会議の捉え方を間違っていることになる。

日本では、個人の発言を個人から引き剥がす努力をしないといけない。これができないと民主主義は発展しないし、個人の尊厳を守るなんてことはできない。
人格攻撃や人間性の否定は、インターネット上に蔓延している。匿名性を利用して相手を傷つける。自己を否定されない状況をつくって、相手の人間性を徹底的に否定する。自殺者まで生まれるこの傾向は、民主主義の否定、ファシズム容認ともつながっていく。安倍内閣が、自己責任を強調して中国や韓国に対する排外主義をあおっている傾向と、個人の人格否定は、深いところで共鳴し合っている。


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Posted by 東芝 弘明