情報と認識

雑感

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ロダンの考える人を否定するつもりはないのだけれど。
あの姿勢で物事を考えるというのが、どうもしっくりこない。ああいう風に考えても何も出てこない気がする。
考えるという行為は、テーマを決めて調べることとほとんどイコールだ。イメージとしては、四方八方に手を伸ばして走り回るという感じだ。ただ、実際は机のまわりに、自宅の場合は、カーペットの上に資料を広げて、手当たり次第に文献を読んで、さらに関係する書籍を読んで、電話をかけたり、場合によっては現地に行って人の話を聞いたりしている。これが、手当たり次第に手を伸ばして走り回っているというイメージと重なる。
そうすれば、新しい認識にたどり着く。発見したときの驚きと喜びは大きい。

ぼくが実行している考えるという「作業」は、結局のところ自分の認識の枠外にある新しい情報に手を伸ばし、そうやって把握した情報に基づいて考えているということになる。情報と自分の認識とのコラボレーションの中から新しい認識が生まれてくる。
新しい認識というのも、ぼくがしていることは、世紀の発明のようなものではない。今まで目の前を通り過ぎていた景色の中に宝物を発見するようなものだったり、視野が広がることによって、右の顔しか見えていなかった状態から左の顔が見えるようになった、というような感じだったりする。富士山の山を1㎜高くするようなものだろうか。
自分にとっての新たな考えにたどり着けるかどうか。それは新しく手に入れた情報による。どれだけ新しい情報に触れることができるかどうかということが、新しい認識にたどり着けるかどうかを決めると思っている。

よく理論と実践の関係が語られる。理論は実践によって確かめられる。新しい理論に基づく新しい実践は、さらに理論を発展させる。実践を通じて得られた認識は深い。この理論と実践の関係と情報と認識の発展の関係はどうなるのだろう。
少し話がずれるのだけれど、手当たり次第に情報を把握してそれを読み解いていくという行為は、かなり実践的な認識の仕方だとも思っている。集めてきた資料を机のまわりにぶちまけて読み込んでいくという作業は、最終的な段階であることが多い。それに至るまでの情報の収集は、自分の体と足を活用して集めてきたものであることが多い。
現地に行き、話を聞き、資料をいただき質問を重ねて物事を把握していく作業が、認識をかなり豊かに触発してくれる。歩いているときや車に乗ったときなどに「そうだ、この視点でさらに調べてみよう」と思いつくことが多い。
テーマを探究するために動き回っているときも含めて、「考える」行為になっている。

じっと座って拳を顔に当てて考えても、ぼくの場合は、浮かんでくるのは雑念ばかり。ああいう姿勢で考えていると腰が痛くなるかも知れない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明