運命

雑感

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運命という言葉で浮かんでくるのは、恋愛のことだろうか。運命の人という言葉があるのだけれど、それは年齢の若い時代の感覚なのかも知れない。結婚生活が長くなると、人生の伴侶であるパートナーが『運命の人』だと思っているだろうか。いろいろな要因が重なってお互いの人生をともに選択した人が、伴侶なのではなかろうか。離婚する人がものすごく多い中にあると、結婚というものが偶然の産物のようにさえ思えてくる。

運命を英語で検索してみると、日本よりも単語が多い。destinyもfateもfortuneもdoomも運命だ。fateとdoomは否定的で死や破滅を意味するが、fortuneは幸運を意味する。一神教である神が全てを見ているという宗教観と運命は深くリンクしているようだ。
日本の国語辞典で運命を引くと「超自然的な力に支配されて,人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運」(大辞泉)とあった。この書き方だと一神教という感じはしない。
運命に似た言葉に宿命がある。宿命については「前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命」というように書かれていて、運命以上に避けがたいようなニュアンスがある。

個人としては、ほとんど運命というものを信じていない。自分自身は、社会の中で主人公ではないし、一人の人間として生を得たという点では、ほとんど意味のない存在だと思っている。自分がいなくても世の中は何事もなかったかのように動いていく。地球という存在の中で個人は、一つの生命体として生きているだけで、そこには哲学的な意味も運命論的な意味もない。生きるか死ぬかは、偶然にも左右されていて、戦争や天災などの状況下ではいとも簡単に死んでしまう。こういう感覚は、ぼくの妹とも共有していた。車の中で話をしていると妹は、「人間として生きているが、生きるということにそんなに深い意味はない」と言った。それにぼくも同意した。

こういう風に書いていると、「なんとニヒルな」と感じる人もいるだろう。でも、命が生まれ死んで行くことを繰り返している地球という生命体を生み出した惑星のことを考えて見ると、地球にとって自分という存在は、多方面に発展してきた生命の一つであって、生命の各個体については、ほとんど意味はないことが見えてくる。生命は集団として種を次の世代へと渡していくためのものだから、個体の生命の長さや短さについては、深い意味を持っているとは思えない。

運命という言葉を信じようとしている人は、「なぜ生まれて生きているのか」という問いに対して何らかの答えを見いだしたい人ではないだろうか。人間は、自分とは何かを考えることのできる意識をもち、自分の意識でさえも客観的に見ることができる能力を歴史の変化の中で形成してきた。こういう力を持った人間は、個体としての生きる意味を問い始め、合理的説明を行うために神という存在を生み出して、人間という存在を説明しようとした。自分の人生がさまざまな状況に翻弄されるのは、神によって定められた運命よる。こういう考え方が運命の背景はに横たわっている。運命について真剣に考えている人は、自分では完全に理解することは不可能な人間という存在に対して、何らかの合理的な答えを見いだしたいという思いを持っている人なのかも知れない。

人間とは何かということを宗教的に理解しようとする人は運命を信じ、人間とは何かを科学的に明らかにしようとする人は、疑問を具体的に探究して、一つ一つを解き明かしてきた。宗教は人間や社会を合理的に説明しようとして一つの体系を作り上げてきたが、科学は、事実の解明によって、宗教的な世界観を一つずつ解体して、神が存在する領域を次第に壊していった。事実を積み重ねて、神秘を解明してきた科学は、自然の豊かさの中に分け入ることによって、自然の不思議さを事実によって証明してきたともいえる。宗教は、全体的な状況を把握して自然界の神秘を説いてきたが、自然科学は、自然界を具体的に語ることによって、宗教以上に具体的に神秘さを語るようになっている。宗教よりも科学の方が、自然界がはるかに人間の常識を超える現象に満ちあふれていることを明らかにしている。

宗教は人智を越えた自然の豊かさを説き、神の存在をその神秘の頂点において、人智を超えた世界を作ったのが神だということにして、多くの人を安心させてきた。自然科学は、自然の豊かさを解明して、自然が如何に具体的に不思議な存在なのかを明らかにしてきた。ただ、自然が人智をはるかに超えた存在であるという点において、宗教と自然科学には親和性がある。入口は違うのに出口は同じようにさえ見える。違うのは、自然科学には解明できない対象はないということだろう。科学の道には終わりがない。事実の解明は、さらに多くの謎を提示する。神という存在を引っ張り出してきて、合理的な説明をしておしまいということにはならない。自然は解明し尽くせないし極め尽くせないが、解明できない問題はないし極められない問題はない。科学はこういう認識の中で前に進んでいる。

運命は信じていないが、諸条件のもとでこういう風にしかならないという宿命論的なものに、ぼくたちも支配されている。諸条件のもとでは、一定の必然性をもって人間は状況に振り回されている。2000年以降の構造改革によって格差と貧困が増大してきたが、この政治的経済的諸関係の中で人間は翻弄されている。貧困に苦しんでいる人の宿命的な道行きは、日本社会が生み出したものだ。こういう傾向とたたかって生きることが、生きる意味を持たない個体としての生きがいになる。生きる意味は、運命論にあるのではなくて、自分で発見し生み出して行くものだろう。諸条件の中で宿命的に見えるものにあがらって生きる。そこに人生の喜びもある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明