科学的社会主義の講座の講師

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来週、科学的社会主義の講座の講師をすることになった。
科学的社会主義というのは、哲学と経済学、社会主義、革命論(階級闘争の戦略、戦術)を構成部分とする学説だ。この学説は、自然科学の発展と社会科学の発展を基礎に不断に発展してきた学説だ。
科学的社会主義という言葉は、空想的社会主義に対置したもの。
哲学は、唯物論と弁証法を基礎にしたものの見方考え方である。この哲学は、物質的な生産である経済を基礎に人間の歴史が発展してきたことを歴史的研究の中から明らかにし、経済的発展によって諸階級に分裂した社会では、階級闘争によって社会が発展してきたことを明らかにしてきた。唯物論と弁証法のものの見方は、弁証法的唯物論とよばれているが、この哲学は、自然科学の発展によって基礎づけられてきたものであると同時に、人間の歴史の研究の中からうち立てられたものである。
経済学は、資本主義社会における剰余価値の生産の秘密を暴露したことによって科学的な経済学の基礎を確立したものだ。商品の分析から始まる経済学は、商品の交換のうちに潜んでいる価値を明らかにし、商品の価値は、社会的な労働時間によってはかられることを明らかにした。この経済学は、資本主義社会は、商品交換というたえず繰り返されているものの中にすべての矛盾の萌芽があることを明らかにし、資本主義社会の下では、労働力が商品になることを明らかにし、この労働力商品の交換過程の中で資本主義的な搾取がおこなわれていることを解明している。資本主義における剰余価値の生産は、目に見えないように覆い隠されている。剰余価値の生産の秘密の暴露──これによって経済学は、解き明かすことのできなかった問題に答えを与え、科学的な基礎を築くことができた。
この功績は、マルクスの研究である「資本論」によるものだ。
こういうことを書いていると、夜が明けてしまうので、今日は哲学のなかの唯物論についてのみ言及しておこう。(弁証法について書き始めると、これも夜が明けてしまう。)
哲学は大きく分けて観念論と唯物論に分かれる。
観念論とは、物質と精神のうち精神を根源的だと考えるものの見方であり、唯物論は、物質と精神のうち物質を根源的だと考えるものの見方だ。
唯物論は、人間の精神も物質の高度な発展によって生まれてきたものであり、精神も物質の働きだというとらえ方をしている。
観念論は、何らかの精神というものが物質の存在より先にあって、この精神が物質を作ったという見方であったり、精神が根源的であり、物質は人間の精神が作りだしたものだとする。
根源的という意味には、物質と精神のどちらを重要だと考えるかという価値論的な見方は含まれていない。唯物論は精神を大事にしないというのは、全くの誤解だ。
唯物論は、物質が歴史的に生成し発展したことを大胆に認めつつ、その物質の発展の中で生まれてきた人間の精神というものを重視する。人間の精神は、自然や社会の法則を理解するとともに、その法則にしたがって自然と社会を作りかえ、さまざまな生産物を生み出して、自分自身の手で歴史を切り拓いてきた。唯物論は、こういう人間の精神活動を物質の発展に基礎をおきながら、極めて重視してきた。高度な精神活動なしに人間は、自然と社会を客観的に深くとらえることはできなかった。
唯物論は、観念論以上に人間の精神活動を物質の働きとの関連で明らかにしている。人間の精神活動は、聴覚、味覚、視覚、触覚、嗅覚などによっても大きな影響を受ける。その意味では、ただ単に脳は独立して存在しているのではなく、人間の体のさまざまな機関と深く結びついており、相互に影響し合って働き、人間の精神を形づくっている。人間の豊かで複雑な精神活動を深く明らかにするためには、唯物論にもとづくアプローチが必要であるといえる。
自然科学の発展によって、観念論の領地は少なくなった。多くの人々は、ごく自然に宇宙が生成され、宇宙の発展の中で地球が誕生し、地球の発展的な歴史の中で、海に生物が誕生し、やがて陸にも生物が繁栄するようになり、やがてほ乳類が誕生して、類人猿が誕生し、ヒトへと発展してきたという見方を受け入れている。そういう意味では、唯物論のものの見方考え方が、人類の普通の考え方になってきているといえるだろう。
しかし、現代でもすべてを科学で証明できないとか、霊魂は存在し人間の魂は、死んだ後も何らかの形で残ると考えている人も多い。
唯物論は、人類の誕生前に地球は存在したということを当然のこととして認めるとともに、自分の意識の外に客観的な世界が存在していることを認め、さらに自分以外に他人が存在していることを認める。この立場を突き詰めていけば、自分の精神もやがては消滅することを認めざるをえなくなる。
今日、重要なのは、徹底して唯物論の立場に立ってものを見極めていくという、ものの見方考え方を貫くことだろう。
自然科学によって未解明な問題があるのは当然だ。そのときに大事なのは、こんなに発達した自然科学でも解明できない不可思議なことはあるというような、ものの見方におちいらないということだ。
人類が到達した科学の水準は巨大だが、未解明な問題の方がはるかに大きい。現代の科学の水準をもって、人類の認識の限界を説くのは間違いだろう。未解明な問題に出会ったときに、この問題は解明できない神秘的なものだという考え方に陥らないで、人間の叡智によってこの未解明の問題はやがては明らかになるだろうという見方だ。そのときに重要なのは、唯物論の立場に立って、物事の法則を一つ一つ明らかにしていく態度だろう。
徹底した唯物論の立場に立っていたからこそ、ノーベル賞を受賞した益川さんと小林さんは、6つのクォークの存在を予見でき、その理論の提唱後、その存在が証明されたのだ。観念論に支配されなかった唯物論の勝利の実例がここにある。
徹底的な唯物論の立場が、真理に近づいていく道だということは、大事な観点だろう。
この徹底した唯物論は、必然的に弁証法と結びついている。
現代の唯物論は、必然的に弁証法的である。
では、弁証法とは何か。
(明日、この続きを書くとは限らない)


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Posted by 東芝 弘明