弁証法について

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弁証法のものの見方考え方を今日は整理して、レジメを作った。
ぼくは次のようにまとめて書いた。

1 ものごとを世界の連関の中でとらえる(エンゲルス)
すべての物事、すべての現象を、孤立したものとしてとらえるのではなく、諸事物、諸現象の全般的な連関の網の目のなかでとらえ、一見ばらばらに見える事象の間のどんな連関をも見逃さないこと。(不破「マルクスは生きている」 新書)
2 すべてを生成と消滅、運動と変化のなかでとらえる(エンゲルス)
自然と社会のすべての現象を、不同な固定的なものとしてとらえる立場をしりぞけ、それらをたえまない変化と運動、なかでも前進的な発展の流れのなかでとらえること。
自然と社会の発展の過程には、多くの対立や矛盾、主流と逆流などが必然的に含まれているものであり、さまざまな事象を一面からだけ見る単純化は警戒しなければならないこと。(不破「マルクスは生きている」 新書)
3 固定的な境界線や「不動の対立」にとらわれない。反対物への転化も視野に入れる(エンゲルス)
自然でも社会でも、その発展過程の分析にあたって、量的発展と質的発展のあいだの相互転化、、否定の否定、対立物の闘争(あるいは相互転化)などの諸法則の現れを、注意して追跡すること。(不破「マルクスは生きている」 新書)

このようなものの見方が大事だということだが、マルクスの資本論の次の言葉は、忘れがたい。

「弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上、批判的であり革命的である」

今日は、弁証法的なものの見方の基本について、いつも考えていることを書いてみよう。
弁証法のものの見方を知れば、世の中の見方が変わるというものではないと思っている。問題は、弁証法的なものの見方を通じて、意識の外にある客観的な事物をありのままにとらえるということだ。
客観的な事物は、弁証法的に存在している。この弁証法的に存在している事物をありのままにとらえるためには、弁証法的な見方が必要になる。
ただし、重要なのは、事物の具体的な存在の仕方をその事物のあり方にそって具体的に理解するということであって、弁証法的なものの見方で事物を勝手に解釈すると、それは弁証法的な見方にはならないということだ。弁証法だといいながら、そのように物事をとらえるのは、客観的な事物を弁証法のわくにはめ込んで勝手に解釈するということに他ならない。そういう物事のとらえ方は、弁証法ではなく詭弁だといえる。
ではどうすれば弁証法的に物事をとらえることができるのだろうか。
「現存するものの肯定的理解」というマルクスの視点が、事物をありのままにとらえる出発点になる。
現実に存在しているすべての事物には、それが成立してきた発展の歴史があり、存在しているだけの客観的な存在の根拠というものがある。客観的に存在しているものをまず肯定的に理解するとが大事だということだ。
「肯定的理解のうちに同時にその否定、その必然的没落の理解を含み」という認識方法は、物事を生成と消滅の過程の中でとらえるということに他ならない。
ではどうすれば、生成と消滅の過程の中で物事をとらえることができるだろうか。
そこで重要になるのが次のものの見方だ。
「どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的側面からとらえ、」
運動の流れのなかで物事をとらえることは、むつかしい。しかし、その事物が発展してきた「経過的側面からとらえ」ることはそんなに苦労しなくてもできる。その事物が発展してきた歴史的な経過を調べれば、経過的な側面は把握できる。
歴史的に生成してきた事物の具体的な変化の過程を把握することが、事物を運動の中でとらえることに重なってくる。
物事を肯定的に理解すること、その物事が生成・発展・消滅の過程にあることを大胆に認めること、その物事が発展してきた歴史を具体的に把握すること。弁証法的なものの見方に接近する道はここにある。これがぼくの弁証法的なものの見方考え方の基本だ。
物事が、どのように具体的に存在し、どのような連関と連鎖の中にあるのか、という問題は、極めて具体的である。事物の具体的な側面をそのものの歴史的な経過の中で具体的に把握することによって、その物事の具体的な連関と連鎖も見えてくる。弁証法的に事物を把握するためには、「根本的にことに通ずる」ことが何よりもまず重要だろう。
繰り返すが、弁証法的なものの見方は、事物を具体的に把握するときに役立つ導きの糸であって、事物を切り取る型紙ではない。ここに重要な観点がある。このことを忘れると弁証法は、似て非なる反対物に転じる。
対立物の統一、量から質への転化、否定の否定という弁証法の法則は、具体的な事物の中にも具体的に存在しているが、こういう法則を理解しているからといって、事物の中にある法則を簡単に見抜けるわけではない。弁証法は、宗教のような悟りではない。
あくまでも具体的な事物の具体的研究を通じて、次第に明らかになるのが事物そのものの中にある弁証法だ。このことを忘れてはならない。
マルクスは、膨大な時間をかけて資本主義の分析をおこない、資本論にまとめ上げた。しかし、結局、生きているときに出版できたのは、資本論の第1巻だけだった。
何に時間を費やしたのか。それは具体的な事物の具体的な研究だ。この努力を通じて、マルクスは資本主義社会の運動法則を明らかにできたのだ。マルクスの資本論は、極めて弁証法的なものになっているが、それは具体的な事物の膨大な研究の中から導き出された研究成果だったということだ。
自然科学の成果は、自然の法則が弁証法的であることをたえず明らかにしているが、それは具体的な事物の具体的な研究を通じて明らかにしてきたものであり、研究と証明には膨大な時間がかかっている。
弁証法を理解した人が、いとも簡単にここにもかしこにも弁証法があるとか、これこそが弁証法的な見方だとかを簡単に語っているのを読むたびに、それは弁証法ではないと感じることが多い。
弁証法を語っているものの中には、ものすごく雑多な詭弁も多い。
弁証法は、事物を勝手に解釈したり切り取る型紙として使われると、たちまち反対物に転化する。
このことは強調しても、強調しすぎることはないだろう。

今日の結論を赤い字で書いた。
込み入った話を最後まで読んでいただいた方には、感謝を申し上げる。


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Posted by 東芝 弘明