会議の運営、根底には個人の尊厳の尊重がある

雑感

ファシリテーションについて、いろいろな本を読んでいる。会議といってもせいぜい10数人のもので、全員が会議に参加し、発言を行いみんなで新しいものを生み出すということに焦点を当てて本を読んでいる。議会という特殊的に見える会議と普通の会議とを比較検討すれば見えてくるものもある。
結論から書くと、最も民主的な会議運営を行っているのは議会(国会と地方議会)だろう。議会はがんじがらめに見えるルールの下で会議が運営されている。全てのルールは、会議規則によって規定されており、原案に対する修正、原案に対する質疑、討論、採択に至るまで細部の方法がすべて規定されている。このように徹底的に会議のルールが確立している会議というものは、議会を置いて他には存在しないのかも知れない。議会以外に民主的なルールが存在している議会があるととすれば、それはおそらく国際会議だろう。それ以外でルールが厳格に規定されているのは、株主総会なのかも知れない。

議会は、議案を修正したい場合は、議会の12分の1の議員の同意を得て修正案を提案できる。修正動議を出すためには、2人以上の賛成が必要だ。動議というのは、議会の議案の流れを止めて、原案に対する修正案を提起する仕組みである。2人以上の賛成で動議が提出されたら、ただちに議案として取り扱わなければならないが、提出される修正案は、形式を踏まえたもので制度上の誤りを含んでいるものは話にならないので、どんな角度からみても原案を修正するという点において、完全でなければならない。これは、足かせにもなるが、同時に絶対に無視できないルールにもなっている。委員会における議案の修正は、1人でもできることになっており、口頭でも可となるが、きちんと修正したい場合は、文書を提出して修正を行う必要がある。委員会に付託される委員会主義を採用している議会では、議案の修正は本会議主義よりも行いやすい。
個人の発言は徹底的に生かされる。首長に対して質疑を行えば、首長は絶対にその質疑に対して答弁しなければならない。答えないという選択肢はない。

普通の会議ではどうだろう。多くの場合、ほとんど会議運営のルールというものは規定されていない。原案に対する修正意見が出た場合に、その修正案をどのような手続きを経て会議に生かすのかというルールが極めてあいまいだ。対処の方法が全く明確になっていない会議も多い。何の規定もない会議の場合、提案権も修正権も全ての参加者に完全に保障されていることになるが、実際の改善提案が原案に対してなされた場合、右往左往する。議会のルールを援用して対応すれば、修正案を扱えるようになるが、そういう運営はほとんどない。

10数人程度の会議でも最も問われているのは、民主主義的ルールだと思っている。如何にして会議を民主的に運営するのか。結局、会議運営のファシリテーションの根底に横たわっているのは、民主主義的な会議運営という問題なのだ。

会議を招集するかぎり、絶対に個人の意見を無視してはならない。ただし合意形成の会議の場合、一つ一つの意見を徹底的に吟味して処理していくような会議運営は取られない。出された意見も、深く考え抜かれたものではなく、思いつきでも人の意見を聞いて閃いたというものもある。どんな意見でも無視しないようにするためには、発言した意見については、きちんと記録が行われて「見える化」しなければならない。ただし誰の発言なのかを鮮明にすべきだとは思わない。少人数の会議の場合、個人の意見・発言には感情が込められており、影響力の強い、発言力の強い人がいる。「私の意見を聞くべきだ」というのは、他のメンバーにとってはかなりの圧力になる。この発言力の強い人が、発言したらそれでことが決定するということを繰り返していると、他の人は発言しなくなる。誰の発言なのかではなく発言の内容を取りあげるということだ。そのためには出された意見を書き出して、目に見えるようにすればいい。意見を客観視できるようにして、その中から何をさらに議論するのか絞り込んでいけば、議論が深まっていく。全ての意見を書き出せば、すべての人の意見が生かされる。
小さな会議で、発言が無視される場合とは、どのような場合だろうか。多くの場合は異論、極論、注文、全否定などだろう。そういう発言を無視することを続けていると、発言した人は、ものすごく面白くなくなってくる。「発言しても仕方がない」、「会議に参加する意味がそもそもない」ということになってくると、その人は活動しなくなっていく。どんな極端な意見でも絶対に無視しないということが重要だ。その人の発言に提案が含まれていれば、会議の中できちんと扱わなければならない。「イベントをおこないたい」という提案に対して、「イベントはすべきでない」という意見は、提案を含んでいる。このような意見を重視して話し合いを行えば、なぜイベントをすべきなのかということも提案した時点よりも鮮明になる。
発言を書き出すような作業が行われない場合、改善の提案のある意見は、絶対に無視しないことが重要になる。会議の中で議論されなかったとしても、それはきちんと対応するようにしなければならない。そういう意見を大切に扱うことは、会議に参加した一人ひとりの人間を大切にすることにつながる。

出された意見を頭ごなしに否定する必要はないし、主催者にその発言を否定する権限もない。会議への参加者が合議制で決定を行う場合、提案者は原案を提案する権限をもっているが、メンバーに対して原案を押しつける権限はない。決定権は会議を構成しているメンバーにある。多く見られるのは、提案者が原案に対する否定的意見が出たら、一生懸命反論するというパターンだ。ある人が発言し、その発言に対して主催者が反論すると、その人と主催者との個別のやり取りになって、参加者はその発言を冷ややかに眺めることになる。主催者がワンマンな場合、やり取りは詰問調になる。この時に打撃的に否定すると喧嘩になってしまう。討論というよりも口論が起こる。口論が発生したら怒りが静まるまで時間をおく必要がある。
全否定というものも提案を含んでいるので、そういう意見がでたら会議参加者全員でその提案を議論する必要がある。参加者全員でこの問題を考えると答えが出てくる。議論を通じて全否定した提案が、採用されなかったとしてもそれはかまわない。全否定した提案者の意見が大切にされ、議論され、その結果不採用になっても、提案者を大切にしたということであり、大事にされなかったことにはならない。

日本人は、本音と建て前が分離している。本音と建て前が分離するような文化の中で育ってきたので、この傾向は日本人に広く一般的に見られる傾向だ。
義務や任務やノルマや目標など、「やらなければならない」ものとか「やり遂げるべき課題」とかがある。やるべき事業が明確だけれど目標が大きく、実現できそうにないものが目の前に立ちはだかっていると、会議参加者の口は重たくなる。叱咤激励しても活発に発言できるようにはならない。
そういう場合は、会議を主催する側は、目標を鮮明にしつつも、会議参加者一人ひとりが「何を知っていて何を知らないのか」を事前に把握する努力を行い、さらに「何を疑問に思うのか、何が不安なのか」を考え、その上に立って会議の議題をどう討議するのかをよく考えて会議を主催することが大事になる。
目標を実現するためのプロセスを考え、何から議論をするのかを鮮明にして会議に臨み、建前に押されて語れていない本音を吐き出してもらうことが重要になる。同時に本音だけでなく、今までの取り組みでよかったことについても出し合うことが重要になる。
会議参加者からいろいろな意見が引き出されたら、次にすべきなのは、これらの意見に対して、ではどう解決するのかを考えていくことになる。思っていることを全てはきだしてもらって、ようやく問題点やよかった点が明らかになり、そこから改善点、解決策の話に移っていける。
会議のレジメを準備することも大切だが、事前に参加者のことを考え、どういう状況にあるのかを踏まえて、どう議論を組織するのかを考えることが重要になる。

会議を科学する。というのは面白い。日本共産党の理論は、科学的社会主義と呼ばれている。この理論は根底に哲学と経済学を持っている。会議を科学していけば、会議運営はもっと改善できる。科学的社会主義の論理の力によって、ファシリテーション論を深めていくのは面白いと思われる。おそらく、この分野の研究はほとんど未開拓だと言っていい。民主的な会議運営とは何か。参加者一人ひとりの個性と尊厳を大切にし、一人ひとりの意見や力を生かす会議運営とは何か。会議の根底には、憲法13条の個人の尊厳の尊重というものが横たわっている。それをどう生かすのか。ここに会議の神髄がある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明