国民主権の充実にこそ、未来がある

雑感

この間、未来社会論の講義の準備をしながら考えていたのは、日本の現代の改革にとっても、これからの未来にとっても、ひと筋の道のように重要なのは、国民主権とは何か、組織の民主的な運営とは何か、ということだった。

資本主義から次の新しい共同社会である社会主義・共産主義は、生産手段の社会化を基礎にした社会・政治・経済の変革によって実現する社会のことだが、その前にどうしても必要なのは、民主主義革命である。この民主主義革命は、国民の手に主権を手に入れるということだ。アメリカと財界に主権があるような状況を転換して、国民主権をどのような形で実現するのかは、日本共産党綱領に詳しく書かれている。国の独立、安全保障、外交の分野、憲法と民主主義の分野、経済民主主義の分野という3つの分野での改革が、それに当たる。

この3つの分野の改革を通じて、国民主権が具体的に実現する。この民主主義革命を通じて、国民主権は、具体的内容をもって充実していく。アメリカに主権が奪われている問題について書き始めると、それだけでかなり長くなるので、国内の政治や経済の問題に限って書いてみよう。
オリンピックを例に見てみよう。オリンピックにしても、日本以外の外国では、オリンピックを誘致するかどうかは、誘致に名乗りを上げている都市の市民の住民投票によって決着がついたところが多い。日本のように東京が選ばれ、首相が乗り出してプレゼンをするようなやり方は採用されていない。日本は、福島の原発事故や東日本大震災を抱えている状況下で、オリンピックを誘致していいのかどうかが問われていたが、それは国民の間ではほとんど議論されることもなかったし、オリンピックの費用についても、嘘偽りのような安上がりのオリンピックという宣伝文句によって誘致が推進されていたので、まともな市民レベルでの議論は、ほとんど存在しなかった。この問題の是非について、東京都民は蚊帳の外だった。

国民主権は、単なる理念の問題や選挙権や現行の法律に書かれている権利だけに留まるものではなく、もっと多方面において具体的に貫かれていく。諸外国が、オリンピック誘致の是非を住民投票で決定しているように、国民主権が発揮される場は、もっと数多く実現するように変化する。国民主権というのは、国民の生活レベルで具体的に問われるものであり、具体的内容を持って充実していくものである。安保条約の是非も国民主権の下で決着をつける。自衛隊の問題についても将来は、国民の意思によって決着をつけるということになる。こういう大きい問題だけでなく、学校教育の意志の決定に教員と保護者、子どもが参加して全てを決める時代がやってくる。子どもたちは、小さい頃から主権者国民として意思決定に参加する。子どもは、社会の重要な構成員として社会を動かす一員になる。

重要な物事を決定するのは、全て国民の意志によるということが実現していくプロセスは、国民が、国や自治体の情報を主権者として把握し、意見を述べるということでもある。身近なさまざまな問題に対する国民の参加や意志の判断が徹底的に具体化されていく。地方自治体における首長や議員の権限も、国民主権との関係で変化していくことが予想される。国民の権利に制限を掛けて、国民を支配している法律が、改正されたり廃止される。意見が二分される問題が発生すると対立した運動が起こるのではなく、公開の討論会が組織され、問題点が整理されて、機が熟せば住民投票が行われるということが、増えていくのではないだろうか。日本の政治、経済、社会における主人公は国民だというテーマは、具体的な内容をもって実現するということだ。

民主主義革命の段階で行う経済改革は、大企業に対する国民の側からの民主的規制ということになる。大企業の利益優先の法体系や中小企業との関係、大企業による税や社会保障関係の制度改善が図られる。労働時間の短縮と正規雇用の拡大、賃金の引き上げを基礎にして、国民の購買力が引き上がれば、日本経済が安定的に発展するようになり、低迷しているGDPも拡大していくだろう。

ここから先の社会主義的変革は、革命ではない。しかし、この社会主義的変革は、さらに豊かな社会への扉を開くものになる。
この改革は、かなり緩やかな形で進められる。市場経済を広範囲に残しながら、市場経済の基盤の中に、一部の巨大な会社における生産手段の社会化という枠組みを実現して、その第一歩は開かれる。これは、選挙公約の実現という形で実行に移される。
生産手段の社会化によって、まず実現するのは、より一層の労働時間の短縮と賃金の引き上げだろう。生産手段の社会化によって、巨大企業が生み出す剰余価値は、その組織が維持発展するのに必要なものに制限され、今までの社会にはない新たな分配が実現する。そのことによって巨大企業の分野では、資本主義的搾取というものがなくなっていく。生産手段の社会化によって、おそらく巨大企業の生産手段は、労働者による組織の管理への移行や協同組合化などによって実現する。こういう組織への移行は、そんなに難しいものではない。現代でもすでに巨大企業の生産手段は、会社が組織的に管理している。かなりの部分が社会化と呼ばれるような形態になっている。しかし、今は、その管理の仕組みが、資本による利潤の追求というもので縛られている。

しかし、そのような管理形態に移行した後に、実際の組織運営をどのようにして民主的なものに作り変えるのか、という課題に取り組むことになる。資本主義の次の社会である社会主義社会における生産手段の社会化という課題は、経済の分野で国民主権を具体的に実現して、生産、流通、管理を基礎にしつつ、さまざまなサービス業の分野においても、国民が経済運営の中で主人公になっていくことを意味する。この分野で、国民が主人公になるという課題は、経済的な活動の意志の決定の仕方を、現在のような管理の仕方から脱却して、民主的な管理形態に移行することを意味する。集団の意志の決定が、集団を形成している個人を尊重することによって実現するような仕組みというものを新しく構築することが重要になる。これは、長期にわたって試行錯誤が繰り返されるだろう。どれぐらい長期にわたる時間が必要なのかはよく分からないが、封建制社会が資本主義に移行するのに必要だった時間と同じほど、長い期間が必要になる可能性がある。

資本の利潤追求のもとでの意思決定は、労働者に対する徹底的な管理によって行われている。生産部門における民主的な組織運営というのは、現代の日本社会においては、ほとんど存在してないと言ってもいいだろう。小さな組織における民主的な運営というのは、実現しているかも知れないが、組織が巨大になればなるほど、管理の形態は命令が中心になってしまう。生産の目的が、生産のための生産、あくなき剰余価値の生産にあるから、どうしても組織運営は、上からの命令になる。新しい商品開発や戦略の決定という部門では、会議における集団の意思決定が重視され、民間においても会議の改善や改革が一つのテーマになっているが、そういう分野でも意志決定の仕組みには、資本の利潤追求という論理が徹底している。組織を命令系統にもとづいて動かしてきた仕組みには、牢固なものがある。上司と部下との関係も権限の違い、指揮命令の権限の違いなどによって、がんじがらめになっている。この関係から脱して、対等平等の関係を構築し、民主的な組織として生まれ変わり、個人の自由な意思が尊重され、集団としての協力や共同が組織されて、働く者が文字どおり主人公となる仕組みを構築するのには、並大抵の努力では実現しない。

この変革を大きく支えるのは、労働時間の徹底した短縮、人間の自由な時間の拡大にある。1日の労働時間が6時間や5時間というように短縮され、労働日も週休3日というような状況になれば、人間は十分な自由な時間を地域で獲得するようになる。もしかしたら、地域における自由な文化活動や社会活動、地域における自主的な経済活動などの発展が先行して、この分野での変化が、労働分野に反映するようになるのかも知れない。

日本では、戦争法反対の運動を通じて、個人の尊厳、個人の尊重という問題がクローズアップされ、憲法13条にもとづいて、考え方の違う個人を尊重し、尊敬しながら協力し合う運動の大切さが自覚された。これは、一人ひとりの日本人が、国民主権に目覚めて立ち上がったものだった。これからの住民運動は、個々人の自覚によって支えられる自主的自覚的な運動として発展していく。今起こりつつあるこのような変化は、国民主権の徹底的な実現へと繋がって行くものになる。
未来社会を展望したとき、ひと筋の道というものがあるとすれば、それは国民主権の具体化とその実現ということになる。社会生活と経済の分野の全てにおいて、個人の尊厳が保障され、民主主義が貫かれ、そのことを通じて具体的に国民主権が充実する。これが未来への展望を支える中心命題の一つになる。


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雑感

Posted by 東芝 弘明