1年間ありがとうございました。

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今年も後もう少しで終わろうとしている。
今年の正月は、牡蠣にあたったところから始まった。スキーに行く予定が壊れ、紀北分院で点滴を打ったのが事始めだった。
香典にお金を入れるのを忘れたこともあり、レンタルビデオを岩出で借り、笠田のオークワに返そうとして、できないことが分かり、早朝、岩出に返しにいったこともあった。
6月には、漫画のような議員定数削減劇があり、定数は18から16になった中で7月町議選挙があった。
5度目の選挙に当選し、ひきつづき議員活動ができるようになった。
議員の中で最も期数の多い議員になった。支え、押し上げてくださったみなさんに感謝したい。
自治体は、国の新自由主義路線に翻弄され、財政削減の中にある。国民には何重にも負担増が押しつけられ、生活悪化、状態悪化が進行している。
格差は広がっているが、この格差は、地域間にもあるので和歌山県などは経済が全体として落ち込んでいる。戦後最長の景気は、和歌山に住んでいるかぎり現実感がない。
12月に娘は8歳の誕生日を迎えた。最近はどうも力関係が逆転して、妻と娘の下敷きになっている感すらする。
議員活動の鋭さと家庭でのふがいなさが混在している。
「家に帰ればただの人」
この名言は、120%当てはまっている。
突っ張って、見栄を張って生きているとしんどい。たえず本音で楽天的に生きる。これがいい。
人生80年。あと3年2か月で50を超える。20歳の頃、50の人を見て「おっさん」だと思っていた。「分別」が身につくんだろうなと思っていた。
でも、わずか30年ぐらいの歳月が過ぎたからといって、悟りが開けるわけではない。みんな悟りが開けるんだったら、有名な哲学者や宗教家はいらない。
それなりに年輪が顔にも表れて、分別臭い感じにはなる。若い人は、その風貌を見て重いものを感いるが、多くの人の中身は20ウン歳の青年のままだ。
年齢が重なっていっても一向に進歩していない自分がいる。たかだか人間80年。悟りを開くには、人生が2度必要だろう。
若い人よりも、年齢を重ねた人の方が若い人の人生がよく見える。それは、自分がくぐり抜けてきた若い時代の経験と記憶によって、少しは若者の直面している問題が何なのか見えるからだ。
若い人が人生の岐路に立ったとき、深く考えさせてくれ、自分の弱さを指摘してくれる人の忠告は聞いた方がいい。結論だけ押しつけられたら、訳が分からないが、考えさせてくれる話しには含蓄がある。
老いとは何だろう。気は若いが体がついて行かなくなって老いを感じる。老いは、意識の中から生まれるより早く、身体的な変化から意識に押しつけられてくる。
喜怒哀楽──人間、さまざまな感情を豊かに自由に表現でき、前向きに生きて人生が楽しければ幸せ。そう思う。
今までの人生は、光のように早かった。何年たっても先は見えない。10年後、自分がどう生きているか。それもよく分からない。人生の見通しは、時として、病気や転変地変によっても左右される。
「一度きりの人生、楽しくなければもったいない」
本気でそう思う。これは、享楽を求めて生きることではない。何もかも、しなければならないことにがんじがらめになりながらも、それ自身を楽しむということだ。
苦難の中にも喜びはある。
2007年。波乱に満ちた新年でいい。日常生活の中に面白いドラマがある。
また、楽しい1年が始まる。


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Posted by 東芝 弘明