土屋伊都子さんの葬儀

雑感

会場には10分遅れで到着した。交通案内の人に促されて駐車場内を左折しても、車を止めるスペースはなかった。
「その軽トラックの前に建物の横に付けてください」
車の窓を開けるとそう言われた。視線の先に軽トラックが見えた。
1階の受付で記帳をして、階段で2階に上った。すでに焼香が始まっていた。
列の一番最後に並んで順番を待った。
土屋伊都子さんは、満78歳で亡くなられた。
焼香の順番を待っていると、25歳の時の選挙のことが思い出されてきた。

23歳で党の専従者になり、党活動を仕事として行い、最初は見習いのようなことをしたり、事務所番をしたりしていたが、25歳の1月の岩出町議選挙で土屋伊都子さんの選対責任者を務めることになった。この選挙は高瀬賢司さんと土屋伊都子さんの2議席を確保するための選挙だった。ぼくより20歳年上の土屋さんは45歳だった。土屋さんの2期目の選挙だった。華やかな雰囲気をもった人で、この人が歩くとまわりが明るくなった。
「新聞読んでくださらない?」
この一言で「赤旗」がものすごく増えた。断れない力のようなものがあった。
土屋さんがはいていた靴、着ていたスーツが記憶の中からたち上ってくる。
今から33年前の岩出町は、人口が急増しつつあったが、まだ至るところに田舎の道が残されていた。選挙の本番中に葬儀に参列する必要があった。土屋さんを乗せて大きな木の茂った田舎の道に車を止めて、焼香を済ませて出てくるのを待ったことがある。ぼくにとっては、なんだかスターのスケジュールを管理しているような感覚があった。

朝の6時頃から道に立って車で出勤する人々に手を振っていた。ぼくはこの活動にも同行した。当時は、今よりもはるかに気温が低かった。真っ暗な中で誰が手を振っているのか分からない状態で、運転手からはシルエットだけが見えていたのではないだろうか。車が途絶えると「あーさぶ」と言って手や足を擦り遙か先に車のライトがチラリと見えるとずっと手を振り続けるということを繰り返していた。
7時30分頃まで手振りを続けていただろうか。冬の白っぽい朝の光が記憶に残っている。

初めて選対の責任者になったので、選挙のメカニズムがよく分からなかった。土屋さんの当選のために裏方の仕事をするのが責任者だと勝手に思い込んで、票などを集計する土屋さんの自宅で仕事をしていると、当時の県委員長だったTさんに叱られた。
「選挙の責任者は、表も裏も両方するんや。選挙事務所に行け」
少し高台にある自宅と選挙事務所はかなり離れていた。プレハブの事務所を建てることが当たり前のような時代だった。

住宅が新しく建ち並んだ一角にプレハブの事務所を建てていた。そこが土屋さんの選挙事務所だった。まだ当時はYさん夫妻が土屋さんの近所に住んでいて、このYさんの奥さんが太く土屋さんの活動を支えていた。選挙の最終盤、当選するかどうかという点で、極めて厳しい選挙になっているということを強調して、「奮い立ってがんばろう」と報告すると、Yさんを中心にみんなしぼんでしまった。急に元気がなくなったので報告したぼくは面食らってしまった。

最終日、土屋さんは99回ほど街頭から訴えた。薄曇りの寒い日だった。体育教師だった土屋さんは、小柄な体にすごく大きなエネルギーを持っていた。
唯一の女性候補だった土屋さんと高瀬さんの2人は当選できた。自分で選挙の作戦を組み立てて果敢に戦ったとはとても言えないような仕事しかできなかったが、ぼくにとっては何年経っても忘れられない選挙になった。
祭壇に飾られている土屋さんの写真は笑っていた。やはり華やかな人だと思った。

若き日に体育教師だった母は
明るくて活発な女性でした
町議会議員をはじめとし
地域では色々な役を務めさせていただき
多くの方々との交流を楽しんでおりました
そんな実り多き人生を歩むことができましたのも
支えていただいた皆様のおかげと
家族一同感謝いたしております

会葬御礼には息子さんの言葉が綴られていた。
何年前だろうか。かつらぎ町のあじさいホールで高齢者大会が開かれたとき、土屋さんたちはフラダンスを踊った。しなやかなダンスを踊る土屋さんは真ん中で輝いていた。

安らかにお眠りください。


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雑感

Posted by 東芝 弘明