安倍元首相の国葬の中止を求めたい

雑感

10時から紀の川市で会議があったので参加した。7分ほど遅れるので電話を入れた。少し急いでいた。長田の観音さんの近くの国道の信号は、連続して2つ並んでいる。黄色で突っ込んで2つめの信号を渡るときには確かに赤だった。連続した信号なので一つの信号かと思ったが、不安もあった。走っているとサイレンが聞こえた。事務所に着いたので指示器を出して左に曲がると後ろから白バイが着いてきていた。
「あれ、」と思ったが、案の定信号無視だった。

「一つ目の信号は黄色だったので違反ではないですが、2つめの信号は赤だったので、信号違反です。切符を切りますね」
そう言われた。「あの信号は1つの信号ではないのですか」と聞くと、「違います。2つの信号が並んでいます」とのことだった。
ゴールド免許だったので、原点2点は3か月で消えるようだが、反則金は9000円と言うことだった。あーもったいない。娘に話したら、「いつか信号無視で違反すると思っていた」と言われそうだ。

朝の出来事としては良くなかったが、それほど気分は落ち込まなかった。会議の中で資料を作成して、配布させてもらった。運動が動き始めている感じがした。

昼からは、安倍元首相の国葬の中止を求める意見書を議会に提出することで、議員の方々に電話を入れた。お知らせの電話だった。内容のことで話をすることができた人とは会話した。中にはお知らせするのでお考え下さいという言い方になった人もいた。さまざまな政治的判断があろうと思う。ただ、国民主権を根底に据えて物事を考えていただきたいという思いがある。

憲法12条には次の条文がある。

第十二条【自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任】
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを 保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常 に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

政府が、国民主権の精神から見て大きな問題を抱える決定をし、実行しようとする場合は、国民の自由と権利を守るために、主権者として意見を的確に述べて、国民主権を守る努力をしなければならない。今回の国葬を執り行うという閣議決定は、憲法14条の法の下の平等と憲法第19条の思想及び良心の自由に違反している。国葬は日本国憲法の国民主権と相容れないから、憲法施行時に廃止されている。国葬を実施したいのであれば、まず法律を制定し、その上で明確な予算を組んで行うべきだろう。その点では憲法上も法律上も法的な根拠のないものを、予備費の流用というこれまた財政民主主義を欠く方法で実施しようとしている。こういうことが、積み重なると、法的根拠なしに閣議決定さえすれば実行できる国になってしまう。こんなことは国民主権の国としては許しがたいだろう。

地方自治体に置き換えてみればいい。かつらぎ町でこのようなことが実行に移されて、議会が黙っていたら、町民の支持を失うだろう。歴代町長は町葬にされた例はなく、町葬という規定もない。国はこの規定もないことをいとも簡単にやってのけようとしている。このときに黙っていていいのかが問われているということだ。
安倍元首相の痛ましい事件を追悼するために必要なのは、悼みたい人々の気持ちを集めて、厳かに死者を弔うことではないだろうか。形にこだわる必要はない。国葬という法的な規定のないものを強引に実行しようとするので、変なことが起こる。反対したくなくても、民主主義を守るためには意見を述べなければならないと思っている人も多いだろうし、安倍さんの業績に対し、国葬はあり得ないと思っている人も多いだろう。世論を分けるような評価の人だったことが、反対する人を増やしている。

国民主権を保持したいのであれば、憲法12条にしたがって、意見を述べるべきだというのがぼくの思いだ。
提出したらどんな議論になるのだろう。
日本国で葬儀に関わる儀式と関連して執り行われるのは「大喪の礼」のみだ。天皇陛下が亡くなると国民の象徴として、「大喪儀」と「大喪の礼」が執り行われる。「大喪の礼」は、葬儀に関連したものであるが、葬儀の本体ではない。皇室の葬儀は、「大喪儀」という神式の私事として行われる。「大喪の礼」と「大喪儀」の区別について、ウキペディアにはこう書かれている。

現日本国憲法下において「政教分離原則」に基づく区別は、1989年(平成元年)2月24日に行われた昭和天皇の葬儀の時に定められ、皇居から葬場が設営された新宿御苑までの葬列、葬場における儀式の一部、新宿御苑から墓所が設置される武蔵陵墓地までの葬列が「大喪の礼」とされた(平成元年内閣告示第4号『昭和天皇の大喪の礼の細目に関する件』竹下改造内閣)。同時に皇室の私的な儀式として「大喪儀」を行うという形式がとられた。

日本の象徴天皇でさえ、国葬にはならないのに、安倍元首相だけを国葬で行うというのはどういうことなのか。日本人は優しいので、今更中止を求めてももう時間がないというのではないだろうか。時間がないので事を荒立てて混乱させたくないという気持ちもあるだろう。
日時と場所を替えないで国葬儀を内閣葬か自民党葬もしくは内閣・自民党合同葬(中曽根康弘氏のときがこの形だった)に切り替えればいい。もちろん、各国の要人に対しては、葬儀の形が変わることは伝えなければならないだろう。それは政府の責任に属する問題だ。法的根拠をもたない葬儀を大規模に行おうとしている国は、国民主権の前で責任を果たさなければならない。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明