ホモ・サピエンスはゆっくり育つ

雑感,笠田小学校

笠田小学校の卒業式に出席させていただいた。卒業式の席上、ホモ・サピエンスのことを考えていた。さまざまな人間の祖先につながっている原人があったが、同時並行的にホモ・サピエンスも存在していて、種同士の交配もあったという説がある。他の原人もいた中で、唯一生き残ったのがホモ・サピエンスだった。他の原人がどうして全て滅んでしまったのか。

正しいかどうかはよく分からないが、ホモ・サピエンスが生き残った理由の一つは、ホモ・サピエンスの成長のスピードが遅いことによるという説がある。他の原人は成人になるスピードが速かったが、ホモ・サピエンスは、まったく一人では生きていけない状態で生まれ、親の庇護の元でかなり長く育てられないと一人前にならないことが、種を生存させる上で非常に重要だったのだという。
人間は、長い歳月をかけて、人間が残してきた文化や文明や知的財産を学び、経済的な力や政治、社会への適応と対応を学ぶ。
現代、世界的に成人なるのは18歳だとされている。日本も20歳を成人としていたが、18歳選挙権を実施し、今年になってから18歳成人を閣議決定するに至っている。人類は、18歳の成人になるまで学びつつけ、それからようやく社会にでるというように考えている。さらに22歳の大学卒業まで高等教育を学ぶ必要性が認識され、成人になったあともさらに学んで社会に出ることも、必要だと認識されている。

人類が蓄積してきたさまざまな成果を学ばなければ、社会の一員になれないというところに学ぶ第一義的な意味がある。小学校、中学校、高校、専門学校もしくは大学という日本が確立している教育の体系は、人類が経験から学びとった、種と社会の存続のために確立した必要なシステムだろう。

人間は、経済と社会と政治、文化の中で生きている。まず生きるためには、飲み食い住み着なければならない。衣食飲住を満たすためには、商品経済の中では貨幣を手に入れて商品を自由に交換できる力を身につけなければ生きていけない。多くの人々は、生産手段から自由になっているので、企業に雇われて賃金労働者として生きなければ、生きて行くすべがない。そのためには、企業に就職できるだけの知識などを習得する必要がある。自分が社会の中でどう生きて行くのか、夢を描き、職業への夢をもって、なぜ学ぶのかを次第にはっきりさせて、学習を行うことも必要になる。

人間は、経済と社会と政治と文化からは逃れない。これらのことについては、学校の教育課程の中で、経済とは何か、社会とは何か、政治とは何か、文化とは何かを、それらが歴史的にどう形成されてきたのかを踏まえて学ぶ必要がある。人間が生きて行くこれらのことをまともに学ばないような学びというのは、大きな問題を持っている。
日本の教育には、経済や社会、政治、文化を学ぶ視点が弱いと感じる。とくに経済や社会や政治について、小・中・高の教育課程を修了しても、それぞれの人間が、経済・社会・政治について自由に考えられるような人間として育っていないという現実がある。圧倒的多数の若者は、経済と社会、政治に深い関心を示さない人間として生活している。

一番の問題は、経済と政治、社会について、自由にものを考えることができないという傾向が横たわっているからだろう。自由に必要なのは批判的精神だろう。批判的精神の自由がない学びには、学ぶ自由がないといえる。
自由に学ばせないような学びでは、知的好奇心が育たない。特に政治ということになると、自由度が極端に低くなる。森友問題が佳境に入り、決裁文書の改竄が白日の下に晒されれば、小学校でも、一体国会で何が起こっているのか、決裁文書の改竄とは一体何なのか。これを小学生に分かるように自由に学ばせることが行われれば、もっと子どもたちは自由に政治や社会のことを考えられるようになる。しかし日本の学校には、現実の政治と社会の中で発生している問題に対し、自由にアプローチできるようなフリーハンドは存在しない。

「学問の自由は、これを保障する」という日本国憲法の精神は、当然小学校の時代から実現すべきだ。子どもたちに自由な学びを保障するには、学校の先生に自由が保障されなければならない。先生方が、労働三権も含めて自由になり、国民として全面的に市民的政治的自由を手に入れなければ、子どもたちに市民としての自由、国民としての自由を教える主体にはなり得ない。

学問には、学問そのものの面白さがある。経済と社会、政治、文化の中で生きている人間は、そういういものを土台としながら、自然科学と社会科学を学ぶ。その中で基礎的な学問に進みたいと思う人もたくさん出てくる。日本や先進国には、そういう人類の発展を根底から支える基礎的な学問について、真剣に深く学べば、それで衣食飲住を満たせる生き方を選択できる(日本では選択肢の幅はかなり狭いが)。応用的な科学である医療は、医者という社会的に確立した職業があるので、経済的に生活が成り立つよう道ができている。
それらの学問が、一体人類の進歩にどうつながっているのか、一見して分からないようなものでも、その研究によって衣食飲住が保障されることは、広くあったほうがいい。それは、文化面でもスポーツ面でも同じ。直接新しいものを生産したり、サービスを生産しない分野であっても、そういう分野が広く存在することによって、人間の生活は豊かになる。

学校は、成人を超えても不断に成長していく人間の成長と可能性を探究する場であり、人間が社会の一員として生きて行く上で、生きる力を身につける場ではないだろうか。学校の本当の姿を歪めているのは、受験システムだろう。日本における入試は、一発試験によって進路を決定づけるシステムをもっている。この弊害は、教育の本来の目的を深く傷つけ、教育の本来の姿を見えづらくしている。
学問は、人間への信頼に基礎をおいて発展してきた。学問は、理性という太い木を土台にして、さまざまな分野に枝を伸ばしてきた。自然科学も社会科学も、この学問の根底に座っている理性を土台として発展させなければならない。人間の理性は、理性と知性の結合にほかならない。この理性は、種としして集団で生活してきた人間に根ざしたものである。人間は人間同士の助け合いによって、大きな仕事を成し遂げる存在であり、同時に人間と人間の交流を通じて、豊かに生きる存在でもある。人間同士の協力の重要性と必要性と楽しさと喜びを学校の中で培うことは、魅力ある人間を育てることに深くつながっている。

小学校の卒業式に参加しながら、今日はこういうことを考えていた。ゆっくりと成長する人間の可能性は、すごく大きい。


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雑感,笠田小学校

Posted by 東芝 弘明