政治的愛国心には対立がある

雑感

愛国心を道徳でどう教えているかということに対して興味が湧いた。しかし、そこに行く前に愛国心とは何なのかというそもそも論について、少し考えてみたい。
愛国心は、郷土愛に支えられた気持ちが根底にあるだろう。自分の住む地域、自治体、都道府県、日本という国。外国に旅行に行くと日本人であることを自覚するように自分の国も外国との関係では、郷土というものになる。郷土愛には、春夏秋冬の中で変化する自然への思いも含まれている。
こういう郷土愛を土台にして、愛国心には、政治、経済、文化、社会に対する思いも含まれる。この中に含まれている政治の中には、経済的な利害の対立を土台にして、政治的に対立するというものが含まれる。そう、政治的な対立の根底には、経済的な利害の対立がある。さらに経済的な利害の対立の根本には、経済的な人間関係における位置の違いによる利害の対立が横たわっている。
政治的利害の対立として、経済的な利害の対立が徹底的にたたかわれる。このせめぎ合いの中で国家が形成され、国家機構が形づくられる。現在の国家機構は、国民主権のもとで形成されるものになっているが、国民主権が徹底的に貫かれた国家になっているかといえば、そうではない。

国家が、国民に対して公平な存在でない場合、どうしても国民の中には、政府を支持する者と政府を支持しない者に分かれざるをえない。安倍さんは最近、国会答弁で「私が国家だ」と答弁したが、安倍さんが国家であるならば、ぼくは支持できない。つまり国家を愛せないということになる。では、今の政権を支持できない人が愛国心を持っていないのかというと全くそんなことはない。
近代国家における政治的愛国心というのは、日本の場合は、国民主権と国家主権、基本的人権、恒久平和、地方自治などの諸原則にもとづいて、個人の尊厳を徹底的に尊重する政治を求める中にあるといってもいいだろう。もちろん、日本国憲法の原則に全く異を唱えることを中心にして、愛国心を唱えることも成り立つ。政治的愛国心というのは、政治的利害の対立を前提にして、まったく主張が相異なるものを含むということだろう。

現代憲法は、国民主権、個人の尊厳の尊重を原則にして、国家権力の手をしばっている。この原則に立った愛国心は、この原則を守る国家を愛するというものであり、国民のために国家があることを求める愛国心だということになる。国民の上に国家があり、この国家のために忠誠を尽くすという国家中心の愛国心とは対極にある。
国家権力の手をしばる立場に立った愛国心は、歴史が浅い。この立場から愛国心が語られることは少ないので、愛国心=国家に対する忠誠だと思い込んでいる傾向が強い。

国民主権の原則に立てば、国民が求める国家でなくなった場合、国民は新しい政府を求める権利をもつという考え方は、アメリカの独立宣言に盛り込まれた考え方だ。愛国心は、アメリカの独立宣言が唱えた革命権を含むということだろう。

日本を愛するがゆえに、安倍政権を打ち倒して、国民主権が生きる国をつくる。これも愛国心の重要な要素の一つになる。相対立する愛国心が、愛国心の中にあっていい。
これが、政治的な愛国心の重要な内容になる。

政治に対する愛国心には、こういう相反する意見の違いを反映したものであるのに、そういう対立がないかのようにあつかい、現在の社会における愛国心を教えるということになると、この愛国心は、現在の政治を肯定的に受け入れるような愛国心を押しつけることになりかねない。ここに愛国心教育がもつ問題がある。
今の日本の教育における愛国心が、どういうものなのかどうか。つぎにこのことを考えてみよう。


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雑感

Posted by 東芝 弘明