日の丸、君が代 画期的な判決

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東京都の教職員401人が原告となった「日の丸・君が代」の強制を意見だと訴えた裁判で、東京地裁は、東京都教育委員会の強制方針は意見だという判決を下した。
「君が代」強制は違憲(しんぶん赤旗9/22)
今回の判決は、画期的な判決だ。国会で君が代・日の丸が法制化されるとき、小渕首相は次のような答弁をおこなっている。
「今回の法制化にあたり、義務づけをおこなうことは考えておらず、国民の生活に何ら影響や変化が生ずることにならない」
この答弁は重要だ。「国民の生活に何ら影響や変化が生ずることにはならない」という答弁にてらせば、東京都教育委員会の強制方針がいかに異常なものかがうきぼりになる。
「君が代」という国家が国民的な合意を得ることはむつかしい。この歌がもつ歌詞の意味、この歌が明治以降果たしてきた役割がある限り意見の違いは消えることはない。
今回の判決は、明確に東京都教育委員会の方針であった起立・斉唱義務は、憲法上保障されなければならない思想・良心の自由を侵すものだとして、違憲だという判断をした。これは画期的な判断だった。また、都教委の一連の指導は、教育基本法第10条が規定する「不当な支配」に当たるという判断をしたこともきわめて重要だ。教育基本法は、国民の権利、教育を守る現実的な力をもっている。
君が代・日の丸問題については、その歴史を伝え、生徒に自主的に考えてもらい、自由に討論をして判断してもらうべきだと思う。その結果、起立する人、しない人、歌う人、歌わない人が生まれてもいいと思う。そもそも、国家行事でない都立高校や区立中学校、区立小学校等で日の丸・君が代を卒業式で取り扱うこと自体、必要性を感じない。区立の学校なら区の歌を歌い、都立高校なら都の歌を歌う方が自然だ。結婚式で君が代を歌う人は、ほとんどいないだろう(いないと言いきってもいいと思うが、変わり種はどこにでもある。歌っている例もあるかもしれない)。
国家行事で法制化された君が代・日の丸を取り扱うことはたびたびあると思う。それは主催が国だから当然のことになる。その場合でも、「ご起立下さい。ご唱和下さい」という域を出ないものだと思う。
教育の現場で、国民的な合意を形成できない君が代と日の丸を強制すれば、矛盾が起こってくるのは当然だと思う。たとえば、高校などでは、教育的な観点でまじめにそれぞれの歴史を教え、自主的な討議を保障し、国民の中には意見の分裂があることを伝えたうえで、自由な判断を求めることこそ教育だと思う。
君が代・日の丸は、生きた時事問題として、歴史的な経緯のある問題としてあつかえば、日本の歩みを知ることのできる重要な教材になる。この問題に科学的な姿勢で向き合えば、日本の歴史を深く知り考える大きな契機になる。学問に必要なのは批判的な精神だ。常識だといわれている問題に対しても、批判的な姿勢で真実を追究してこそ学問は発展する。
法律で決まった国旗・国歌だから起立して歌うのは当然という態度は、学問の批判的精神に反する。東京都では、歴史を教え内心の自由があることを教えた教師も処分を受けた。ここまでいけば、教育の自由そのものが死んでしまう。
小泉純一郎首相は「人間として国旗・国歌に敬意を表するのは法律以前の問題だ」とコメントした。内閣総理大臣が、法律で制定した国旗・国家に対して、「敬意を表するのは法律以前の問題だ」と言ったことに驚く。法律以前という言葉は、法律にはしばられない超法規的な存在という意味にさえとれる。文学者が文学的表現として語ったのなら聞き流せるかも知れないが、憲法と法律を守る立場にある内閣総理大臣が法律以前などという言葉で国旗・国歌をとらえていることが恐ろしい。
こういう言説をあらためるためにも、今回の裁判結果が多くの人の心にとまり、君が代・日の丸について考える人が増えることを期待したい。


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Posted by 東芝 弘明