人間ははかない存在

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自分という存在について考えてみる。
議員をやっているので、地域の中ではかなり多くの人に存在は知られている。
しかし、人間の記憶というものははかないと感じる。
ぼくの父の記憶は、ぼくが6歳の時で終わってしまった。ほとんどないに等しい記憶を埋めてくれたのは、父を知っている人が話してくれたことだ。
ぼくのおじいちゃんとおばあちゃん。ぼくが物心ついた頃には、2人とも他界していた。父の写真は白黒とカラー、それぞれ残っているので、まだうっすらとした記憶と結びつくような感じでイメージが残っている。
しかし、おじいちゃんとおばあちゃんについては、まず写真がない。母親からもほとんど話を聞いたことがない。兄貴に聞いてもおじいちゃんとおばあちゃんの話が出てこないので兄貴の記憶にもほとんどないのかも知れない。
人間というのは、実際にあったことのある人でなければ、記憶に残らない。映像でのこっているか、写真で残っているか、もしくは書いた文章が残っていて初めて会ったことのない人に思いを寄せることができる。
最近は、写真やビデオがあり記録の保存方法が発達しているので、一昔前よりもその人物の記録を残すことができるので、会ったことのない人に対する思いを記憶にとどめることができるようになったかも知れない。しかし、それでもなお、一般の普通の人々は、自分の思いを残すことは少ないので、会ったことのない次の世代に、その人が生きた思いを残すことはむつかしい。
人は、せいぜい自分の子と孫ぐらいにしか自分の記憶を残すことができない。70歳なら70年、80歳なら80年間しか人間は他人に記憶を残せない。
先祖の供養といっても、会ったことのない人の名前が代々家系図に残されていても、その人がどんな人なのかを図り知ることは難しい。
結局、自分の生きた姿を自分と会ったことのない人に伝え、残していこうと思えば、本にして残すか、映像にして残す以外にない。
ただし、現代の最新鋭の技術によって保存されたデータは、技術革新のスピードが速すぎるので、保存メディアが良質な状態で保存されていたとしても、再生機器の変更によって再生不可能な状態になる可能性が濃い。レーザーディスクやベータ形式のビデオテープ、5インチのフロッピーディスクが再生しにくくなっているように。
時代が変化しても、比較的長く保存され人々に受けとってもらえるのは本という形式だろう。本は保存状態がよければ、かなりの時代を隔てても人々にその人の気持ちを伝えることができる最良のものかも知れない。
知的財産が、コンピューターの中でデジタルデータとして大量に保存される時代となった。たった1台のノート型のコンピューターに、自宅に入りきれないほどのテキストデータを保存できる時代になってはいる。しかし、これらの保存方式は、ハードディスクというきわめて小さな、壊れやすいものの中にあるだけだ。バックアップをとっていたとしても、この形式は、地震・水害・台風にはきわめて弱い。小さな中にものすごい量のデータを保存できるということは、壊れたらものすごい膨大な被害を生み出すということに他ならない。
本というメディアは人類に大きな貢献してきた。本のすばらしさを超えるメディアは存在しないのかも知れない。
文章を書き、本として残せる人は幸せだと思う。自分のことを書いた自費出版本を自分の子どもや孫に残す人が増えている。これは非常にいい試みだと思う。
「Blogを本にしませんか」
こういう問いかけがBlogのサイトに載っている。この呼びかけに心が動く人は少なくないかも知れない。多くの人に読まれるブログのサイトが生まれている。そういう人のBlogが本になる道ができ、その中からベストセラーが生まれたら、非常に狭い出版業界に大きな石を投げ込むことになる。
はかない人間だからこそ、自分の生きた証を本に残す──ここに夢を感じる人間として、毎日自由自在に文章を書く訓練をしている。ぼくの毎日更新は、こんな思いに支えられている。


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Posted by 東芝 弘明