湯子川でのキャンプを思い出した
子どもたちのキャンプが終わって、1日経った。早く眠ったのにまだ眠気が襲ってくる。
疲れが取れていないということだろう。
海南の塩津小学校よりももう少し高台に芝生を敷き詰めた2段になった公園がある。そこには、まきで調理が出来る屋根付きの調理場があり、会場の一番奥には、野外ステージ場もある。
山を背にすると、塩津の海が見え対岸にはマリーナシティーが見える。はるか遠くに淡路島や四国も見える。
2段になった芝生の公園の下の段に、ドーム型のテントを6張りほど設置して1泊2日の「研修会」が、27日、28日の土日行われた。
子どもたちは、お昼に焼き肉どんぶりを作り、海での海水浴を楽しみ、夜にはカレーを作り、海南市塩津の子どもたちと下津の子どもたちとの交流事業をおこない、次の日の朝には自分たちでホットドッグを作って食べた。
そうそう、朝6時30分には、ラジオ体操も行った。
ぼくの子ども時代のテントは、家の形をしたもので、設営するのには、随分な作業が必要だった。あれは何年生の時のことだったろうか。新城の湯子川にある第2キャンプ場の河原に家形のテントを張り、1泊2日のキャンプをしたことがあった。その頃の湯子川は水量が多く、川の水は「飲めますよ」というお墨付きの出たものだった。
今から40年ほど前の時代だから、ペットボトルなどなかったので、お茶はやかん、お鍋の水は川から汲んだものだった。お米も湯子川で洗った。乳白色の米のとぎ汁が、湯子川の澄んだ水に混じり、また透明に戻っていくのを不思議そうに眺めていた。
カレーのルーは、当時すでにハウスバーモントカレーもジャワカレーもあったが、子ども用のカレーのルーは、ハウスバーモントカレーだった。
ジャガイモの皮むきは、全部包丁で行っていた。
もちろん、子どもたちはトレパンとトレシャツだった。トレシャツの色は白く、襟のあるもので、チャックで胸の上3分の1ぐらいまで開くことのできる物だった。
寝るために持ってきたものは、毛布だった。タオルケットというような代物があったかどうかは、あんまり定かではない。
夜に、真っ暗な湯子川に沿って走っている道をみんなで探検した。湯子川には、炭鉱跡のような洞窟がある。夜、探検しながらその洞窟も前に立った。中を覗くと水が溜まっているので、入ることはできなかった。懐中電灯を照らすとコウモリが逆さになってぶら下がっていた。目が少し光る感じだった。
湯子川の朝は、空気が冷たく霧のようなガスが発生していた。起きると、河原で眠ったというすがすがしさがあった。
子どもの時のキャンプの体験から40年ぶりにキャンプをしたように思う。時代が変わっているので、格段に便利になっている。飲物はペットボトル、手にはベープの電池式香取マット、百均のLED懐中電灯、電気剃刀、チャッカマン。ワンタッチで開くレジャー用テント、ワンタッチで開く椅子。クーラーボックス、保冷剤、連絡用の携帯電話とメールなどなど。ワンタッチ商品や便利な道具がたくさんある中でのサバイバルというのが、現在のキャンプだった。
途中、雨が降ってくるとかつらぎから電話があった。
「紀北地域に大雨警報が出ているけれど、大丈夫?」
「うん、こっちは大丈夫」
40年前は、こんな情報のやり取りは出来なかった。聞けるものはラジオ程度。山の中だと感度が悪かった。雨が降ってくると、雨の状況を見て現場で判断するしかなかった。
みんなのお願いが強くあったので、お風呂タイムも設けて、N君、Sさん、ぼくの3人で銭湯までみんなを案内した。今の子どもにとって銭湯は初めての体験だった。スーパー銭湯とはかなり様子が違ったはずだ。
時代が進む中で、便利な物がたくさんでき、その恩恵の中でぼくたちは生きている。サバイバルだといっても、昔の時代とは随分勝手が違う。今回は薪で火をおこして飯盒でご飯を炊き、鍋でカレーを炊いたが、カセットコンロをもってくれば、ガスで調理も出来る。
40年前のキャンプには、このような選択肢はなかった。
時代の変化の中で、子どもたちに何を学んでもらえばいいのだろうか。
自分たちで、実際に何かを行うという取り組みを出発にして、中学校や高校の時代に入ると現在の文明の利器とサバイバルをテーマに、日常生活を見直すのがいいかも知れない。
倉本聰さんがいう「原始の日」を体験する。
文明の利器を使うことを極力避けて、一度自分たちの力で1泊2日のキャンプに挑戦する。
綺麗な水を確保するためには、川の水の煮沸から始める。山に行きシバになる木を拾ってくる。木の皮で火を付ける。マッチだけは使ってもいいなどなど。
おそらく、そんなことをしたら、今回のキャンプより、もっと疲れるに違いない。
でも、文明の力について、人間の力について、考える機会になるという点では、面白いかも知れない。