夕暮れと寄宿舎

思い出

午前中会議、午後会議、夕方打ち合わせ、取材の事前打ち合わせで1日が終わった。
秋めいてきた。夏の終わりが近づいている。

夕暮れになると思い出すのは、笠田中学校の寄宿舎での生活だ。寄宿舎というのは、笠田中学校の学校内に建てられていた山間部の子どもたちの宿泊施設だった。学生寮と言ってよい。月曜日から土曜日まで交通の便の悪い山間部の子どもたちは、寄宿舎に入って学校生活を送っていた。
寄宿舎での夕食は5時頃だった。食堂は家庭科室だった。ご飯を食べてから勉強が始まる7時までは自由時間だった。
2学期が始まった頃はまだ暑かったので1、週間ぐらいはご飯を食べた後も水泳をしていた。笠田中学校のプールで夕方泳ぐ。7時の勉強の時間に間に合うように泳ぐと、薄暗くなって友だちの姿がプールの中でシルエットになった。先生が見に来ることもなく子どもたちだけで泳いでいた。寄宿舎生にとって学校は庭だった。体育館も校庭も生徒が帰った後は自由に使うことができた。

寄宿舎は、学校の敷地の一番西に校舎と並行して建てられていた。ぼくたちが中学校に入学したときは、男子3室、女子3室の大部屋暮らしで、1階が女子、2階が男子が住む場所だった。部屋は18畳ぐらいだったろうか。そこに8人ぐらいが寝泊まりしていた。自分のスペースは、畳1畳半ぐらい。宙づりのロッカーが天井から胸のあたり(ぼくは背が低かったからそういう感じだった)まで吊され、そこに布団と自分の勉強道具、着替え、さまざまな小物がしまわれていた。プライベートな空間は、このロッカーだけで、横長の部屋の両端にロッカーが吊され、部屋の奥は大きな窓ガラスがあった。寝るときは部屋の真ん中を空け、頭と頭が向き合うように布団を並べていた。
共同の洗面所はトイレの横に部屋の壁に付くような形で設置されていた。洗面所を曲がると廊下があって、この廊下に面して3つの大部屋が並んでいた。ぼくが入った頃は、寄宿舎に40人ぐらいの生徒が入居していた。

1年生のときの夕食は苦痛だった。先輩がおひつに入ったご飯をよそってくれる。「そんなにいらないです」と言っても全然聞いてくれない。「これぐらい食べないと大きくなれへんで」と山盛りのご飯がどんぶりに入れられた。身長が130センチそこそこしかなかったぼくは、最後はオエッとなりながら食べていた。ご飯を食べて涙が出るのは嫌だった。

こんなにご飯を食べさせられて大変なのに、ぼくの同級生は、夜中に調理室に窓から侵入して、勝手にご飯を炊いて食べ大騒ぎになった。しかもこの事件は入学して1日目に発生した。先輩にけしかけられていたずらをしたようだったが、「変なやつが学校に入ってきた」ということになった。そいつは、写真部の同級生と親しくなって、自分のチンチンを写真に撮って現像する事件も起こした。みんなに見せびらかしていると、先生に見つかってこっぴどく叱られた。

1年生からすると3年生は恐かった。サッカー部の先輩のEさんは、下級生のケツを思いっきり蹴っていた。お尻を蹴られる「制裁」がどうして行われたのか理由はよく分からなかった。
1年生からすると3年生は大人のように見えた。ぼくの部屋の室長は、陸上部のMさんで中学生にして筋肉の付いた均整の取れた体をしていた。ぼくとは全く違う体型だった。ぼくはこの人に憧れて陸上部に入ったが、最初から戦力外だった。
優しい感じのNさんは、バク転とバク宙を自在にできる人で、部屋でもやって見せてくれたりした。あるときバク宙の途中でぼくと目が合って、回転を中断したことがあった。エビ状に反った体で着地点にぼくが座っていることを確認して、「あぶない」と言って回転を途中で止めた。エビ状に反った体とNさんの表情は今でも浮かんでくる。
大人のような3年生が卒業すると寄宿舎生活は一変した。一つ上の先輩は3人しかいなかったので先輩と後輩の関係は優しくなった。この変化によって丼鉢にご飯を満杯にされることもなくなった。それだけでも寄宿舎は住みやすくなった。

先輩で吹奏楽に入っていたK君は、リコーダーでどんな曲でも吹けるような人だった。ぼくは、『荒野の七人』をよくリクエストした。後の2人は野球部とサッカー部だった。ぼくは2年生になって、同級生がいる剣道部に入って弱小剣道部でチャンバラをして遊んでいた。弱小剣道部の剣道は、剣道というよりほんとチャンバラだった。


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思い出

Posted by 東芝 弘明