母の命日に 2005年2月14日(月)

思い出

今日は母の命日です。
お昼、家に食べに帰る途中、スーパーによって母の好物だったモナカをお供えに買いました。仏壇に供え、お茶を入れロウソクと線香を立て火をつけました。仏壇用の白い湯飲みから湯気が立ちのぼり、少し揺れながら消えていき、線香の煙りは、上に真っ直ぐ伸び、先の方で広がり拡散しました。
手を合わせると28年という言葉が口から漏れました。

高校2年生の年、17歳になる直前の2月14日の午後11時10分、母は4根年間の闘病の末、他界しました。甲状腺ガン全身転移、これが母の病名でした。父が他界したのは、小学校1年の6月だったので、父の死後11年で母は亡くなったことになります。
5歳年上の、大学生だった兄と2つ年下の中学3年生だった妹と高校2年生の私が残されました。兄は大学を中退し就職、妹は高野山の従兄弟の元で生活し、高野山高校に行くことが、葬儀の後の話し合いでばたばたと決まりました。

小学校の教師だった母は、父の死後、父方の兄弟の子どもたちを何人も自分の家に住まわせて育てました。
当時は、戦争が終わって20数年がたっていましたが、まだ貧しさが色濃く影を落としていました。経済的に裕福でない父方の従姉妹(従兄弟)たちを引き受けていても、何の分け隔てもなく涼しい顔で育てていた母からは、子どもたちを引き受けたいきさつも、その時の思いも、一切聞かされたことはありません。
私たちがまだ小学生で、話を聞くような年齢でなかったから、話さなかっただけではないように思います。私が、中学校・高校へと進学しても、従兄弟たちを引き受けた苦労話は全く出ませんでした。
自分が家庭をもち、生活する責任の重さを自覚できるようになるにつれて、母のとった態度の大きさを感じずにはいられません。

新城小学校は、全校生徒が40人足らずの複式の学校でした。この学校と村は、現在西日本で山村留学を最初に始めたところとして有名です。私たち母子が暮らしていた頃は、山村留学はまだ始まっていませんでした。
母はこの小学校の教員でした。私は、3年生と4年生の2年間、母に担任をしてもらっています。子どもなりに気をつかっていたのでしょうか。私は学校は母を先生と呼び、家では「おかちゃん」と呼んでいました。兄弟3人の中で、母が自分の担任だったのは私だけでした。子ども心にも、こういう措置は異例だと感じていました。小さな学校だからこそ許されたことだったのかも知れません。

28年前の2月14日は月曜日でした。14日になると当時のことが鮮明に浮かび上がってきます。
当時、私には好きな女の子がいました。2年生の秋に思いを告白すると、「友だちなら」という曖昧な返事が返ってきました。それでもその後少しばかり交流がありました。
2月に入ると次第に2月14日のバレンタインデーが来るのが恐ろしくなってきました。打ちのめされるのが怖かったのです。
12日の土曜日は、4月上旬のような晴天でした。土曜日も学校があった時代のことです。
4時間目のチャイムが鳴るのをまち、3階の教室の廊下でその子が出てくるのを待っていました。
「話があります」という言葉をかけるとき、極度に緊張していました。
廊下の北側に傘立ての場所があり、そこに腰をかけるようにして、話が始まりましたが、ほとんどまともな話が出来ませんでした。
廊下には誰もいなくなり、2人だけになりました。
「帰ろう」と言ったのは、彼女の方だった記憶があります。彼女は、自分の自転車を押し、ぼくがその横を肩を並べて歩く形になりました。駅前まで一緒に歩いて帰り、私の家の近くにあったタカラブネに寄りました。
「お父さんのためにチョコレートを買う」
彼女はそういいました。
肝心なことは何一つ話できませんでした。2月14日に対する不安は全く変わりませんでした。

2月14日、月曜日の朝4時頃、
「弘明、病院に行く、起きれ」
という兄の言葉で起こされました。
「お母さんが危篤や」
兄はそれ以上、ほとんどしゃべりませんでした。
県立和医大紀北分院には、従兄の車に乗せてもらったような記憶があります。
母の意識は混濁していました。病院には、父方の従兄弟を中心にすでに多くの人が集まっていました。
母は14日の夕方、意識を取り戻しました。兄が母と会話し、そのあと私が話しました。
妹が話をした時、「奈良県のある方のもとに養女にいく」という話をしたように思います。
母は高野山の一番信頼していた従兄と相談して、子どものいない優しそうな夫婦で子どもを求めていた人のもとへ、妹を養子縁組させる話をすすめていました。自分が亡くなった後、一番若い子どもの行く末を心配してのことでした。妹をどんな形で説得したのかはよく分かりませんが、妹は2度ほど先方と会い、養女になる方向で話が進んでいました。

私は、この頃、非常に内向的で、自分の世界しか見ていないようなところがあり、妹のまわりでこんな話が進んでいたことすらほとんど知りませんでした。
みんなと会話を交わしてしばらくすると、母の意識は混濁し始めました。母のガンは最後まで母を苦しめました。やがて苦痛が次第に母の意識を覚醒させ、母の口から「楽にして」という言葉が荒い息とともにはき出し続けられました。痰が喉の奥に絡みついて、呼吸を困難にし、呼吸を回復させるための吸引がより一層母を苦しめました。母を親しく看護していたベテランの看護婦さんが、声を上げて泣いていました。妹も高野山の従兄のお嫁さんもベッドにしがみついて、泣き崩れていました。
夕方から、気温が急速に下がり始めました。春のようだった天気が一転し、その冬一番の寒気がやってきました。
寒さが緩んだ2月、気分のいい時に母は、「もう一度桜がみたい」というような言葉を病室で漏らしたようです。しかし、春のような陽気は、寒気に打ち砕かれ、母の命も一緒に消してしまいました。医師は、最後まで人工呼吸をほどこし、消える命に刺激を与え続けました。私は、力を尽くしている医師に心の中で「やめて」と叫んでいました。4年間、子どもたちのことを心配し、最後までそのことに思いを残しながら、母は命を失いました。
看護婦さんたちが母の身を清め、ワゴン車に乗せて高野山のあの曲がりくねった道を登ったのは、夜中の3時頃だったように思います。

15日の夜が通夜で16日が告別式だったと記憶しています。通夜の終わった夜、線香の灯を絶やさないために交代で母の横に座りました。1人になった時、母の顔にかけられていた白い布をはずして母の顔を見ました。やつれた顔には、まだ苦痛の跡が残っているようにさえ見えました。
高野山は、その年、襲ってきた寒波でマイナス10度以下に気温が下がりました。大明王院の石畳に置いた靴が石に凍り付いて動かなくなりました。

「春雪妙宰信女」
これが母の戒名です。この戒名は、前日までの春のような陽気と記録的な寒波を繰り返し思い出させてくれるものとなりました。半紙に書かれた母の戒名の字は流れるように美しいものでした。

葬儀の次の日、火葬場で遺骨を採取しようとした時、母の骨は箸の先でぼろぼろ壊れてしまい、なかなかまとまった骨を拾い上げることができませんでした。コバルト治療を繰り返した結果、母の骨は、ぼろぼろになっていました。

母の死は、次第にその意味を重く大きくしていきました。大きなショックは、葬儀がすんで1か月後にやってきました。私は、不安定な心理状態の中で好きだった女の子の顔を見る勇気を持てませんでした。
2月14日の日、彼女は私のクラスに来て私のことを探していたようです。
彼女の誕生日は2月23日でした。その時は、忌引きの状態で高野山の従兄の家にいました。
彼女には、3学期が終了してから1カ月遅れの誕生日プレゼントを渡し、母の死についても触れ、自分の心境も綴った手紙を添えました。
手紙に対する返事は返ってきませんでした。
3年生になると彼女とは同じクラスになりました。しかし、ほとんど話も出来ないまま、一年が過ぎていきました。
彼女に対する気持ちは、友だちの中にも周知の事実として知られていたようです。受験の重圧が次第に重くなっていた秋、3人の友人が、彼女に私のことを尋ねたことがありました。彼女は、何度も手紙を書こうとしても書けなかったことを話してくれたようです。
卒業式の3月1日は、寒い曇り空でした。担任と副担任の先生とクラスみんなでお別れをした後、教壇の前に立っていた彼女に声をかけました。大学はどこに行くのか、という話をした記憶があります。
「握手してください」
声が震えました。
彼女は、手袋を外して白く細い小さな手をスッと伸ばしました。
「元気で」という言葉がにじんでしまいました。
彼女は、後ろを向いて少し泣きました。
これが恋の顛末でした。

26歳の時に、美里町長谷にあった母と父の墓を高野山に移しました。高野山の従兄と母の骨の入った壺を開けると、中にはわずかばかりの灰のようなものがあるだけでした。立ち会っていた親戚の人々は言葉を失いました。
母は、20歳の時すでに教壇に立っていました。許嫁は8月6日に沖縄の海上で戦死しました。それでも母は、8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞き、戦争に負けたといって涙を流しています。日本が戦争に勝つと信じ、教壇から子どもたちにそう教え、お国のために尽くすことを疑問もなく主張していたのです。
戦後、母は「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げた教職員組合に加盟し、勤評闘争のなかでも、組合から離れず、非常に保守的な山村でも活動を続けていました。
三島由紀夫が自決したとき、新城の家の玄関先で朝日新聞を何時間も食い入るように読んでいた姿が印象に残っています。

私が日本共産党に勤務し、数年たった時のことです。
母の同僚だった女の先生が改まった口調でいいました。
「あなたのお母さんに入党を勧めて、入ってもらったんやで」
静かな語り口だったのに、この言葉は私の胸にしびれるように広がりました。
母は、党活動をしませんでした。それはおそらく、入党後しばらくしてガンになり、闘病生活に入ったからだと思います。
日本共産党は、戦争に命がけで反対した政党です。母はこの党の呼びかけに正面から答えようとしました。笠田の町に引っ越ししてきた時に、母は直ちに「赤旗」の日刊紙を購読しました。私がこの新聞を読み始めたのは、母の死後でした。
母が歩めなかった道を、私は歩いて丸26年になろうとしています。
日本共産党員になっても損得で言えば、得になるようなことはほとんどありません。
しかし、誠意をもって、人間を信じて生き抜くという点では、党が与えてくれたものは大きかったと思います。
病院のベッドにくくりつけられていなかったら、母はさまざまな話を私にしてくれたかも知れません。
聞きたいことも聞けないまま、知りたいことも知り得ないまま母は亡くなりました。
子どもたち3人の手元には、母が書いた何冊かの日記と短歌のノートが残されました。
「子どもたちに伝えておきたいことがある」と書き出したノートの文字は、次第に乱れ筆は途中で止まっています。母には伝えたいことがあったようです。しかし、病気はそれさえ許してくれませんでした。
綺麗だったノートの文字は、ガンが進行するにしたがって次第に乱れ、やがては止まってしまいました。
問いかけても答えを返さない母ですが、私が自分で選択した「ひとすじの道」は、母が歩こうとした道と重なっていることをうれしく感じます。
戦争に翻弄され、戦後の民主教育の息吹と、その反動を体験したうえで、日本共産党を選択した母。この母に恥じない生き方をするために、私はこの「ひとすじの道」を歩いていきます。


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思い出

Posted by 東芝 弘明