『魔女の宅急便』の新しいDVD&ブルーレイ

映画

「『魔女の宅急便』再生できなくなってるでな」
「うん、そうやで」
「最初は見えるんか」
「途中から再生がとまる」
娘とこういう話になった。途端に新しい『魔女の宅急便』を買いたくなった。Amazonで物色すると、中古よりも外国用に販売したDVD&ブルーレイの2枚組のMediaが安かった。
「これでいいんかな」
一旦購入してから不安になって取り消し、それから1時間ほどしてから再度購入した。Amazonのポイントが1,300円ほど貯まっていたので、それを活用すると1,000円ほどで『魔女の宅急便』を購入できた。

スタジオジブリに規格が持ち込まれた作品で、最初から原作があった。風土舎とヤマト運輸が電通を通じて徳間書店に持ち込んだのが『魔女の宅急便』だった。結局紆余曲折があって宮崎駿がシナリオを書くことになり、監督も引き受けて出来上がった作品だった。この作品は、宮崎駿さんが監督を行った作品の中では異例のものになった。
しかし、『魔女の宅急便』のファンは多いし、ぼくにとってもかなり好きな作品だ。

どうして魅力があるんだろう。キキがかわいい。ジジとの会話がいい。シータのように強い女の子ではなくて、わがままで気分屋さんの普通の女の子であるキキが、「落ち込むこともあるけれど、私この町が好きです」というように一生懸命に生きているのがいいのかも知れない。

キャラクターを決めてからシナリオを書くという高畑勲さんの描き方を出発にして、描きながらストーリーを考えるという、さらなる冒険に足を踏み出して作った作品は、『ハウルの動く城』だった。こういう描き方をした人は、ほとんどいない。

日常の現実は、シナリオなんて全く存在せず、それぞれが勝手に動いている現実と現実のぶつかり合いや絡み合いがあるだけだ。これをアニメーションで再現しても普通はうまくいかないだろう。 冗漫になるだけだ。2時間の作品に仕上げるためには、文学作品における典型を追い求める必要がある。しかしこの典型をいかに個性を持った具体的な人物としてリアルに描けるかどうか。これを追い求めないと作品にはならない。輪郭のはっきりした、個性豊かな人物を描くのは、典型を描くことと深く結び付いている。典型。人間は、その時代の刻印を受ける。人物を描くとき、その社会や時代の刻印を受けつつ、時代の中で翻弄され、もしくは時代を切り開いたり、影響を与えたりする。そのとき、時代によって生み出される必然的なものが具体的な人物を通じて現れる。これを描くことが典型を描くことになる。 英雄だけが典型ではない。その時代を生きた庶民の姿を典型的に描くということも当然ありうる。 具体性を抜きさった典型は、典型ではない。それは類型だ。個性的なものを通じて典型を描きてはじめて典型は成り立つ。

典型を描きながら個性豊かなリアルな人物を生み出し、これらの人物によって物語が生まれてくるという描き方を2時間という枠の中に収め、作品に仕上げていくというのは、超人的な仕事だ。ストーリーを明らかにしないで集団で作品を作るというのは、地図とコンパスを持たないで山に登るようなものだ。

冬山なら遭難して凍死する。そうならないで作品になって世に出てくるのはすごいと思う。しかし、シナリオがあって、描く世界が最後までしっかりしていて、作品として整っている『ラピュタ』や魔女の宅急便』の面白さも捨てがたい。

ナウシカ、サンとは全く違う、キキという女の子の日常に心惹かれるというのが、『魔女の宅急便』なのかな。

この作品を通じて、『トトロ』と『火垂るの墓』の赤字を解消してスタジオジブリは立ち直ったという点で、『魔女の宅急便』は、スタジオジブリを救った作品だといえる。ただし、『トトロ』と『火垂るの墓』は映画上映後も名作として残り続け、特に『トトロ』はジブリの看板作品として、DVDやグッズの販売を通じて作品の赤字を解消したものになった。

魔女の宅急便


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Posted by 東芝 弘明