中阪町長に対して尋ねた歴史認識と憲法9条についての一般質問

議員の活動,かつらぎ町議会

今回の一般質問は、次のような質問から始めた。

「『過去から何を学ぶのかで、現在と未来は大きく変わる』──これは明治大学文学部教授の歴史学者、山田朗さんの言葉です。歴史から学ぶ意義を町長はどうお考えでしょうか」
中阪町長は、「歴史から学ぶことは大切だと思っています」と答弁した。

これを受けて、ぼくはこう続けた。
第2次世界大戦の評価について、学術的には決着がついています。しかし、政治的には決着がついていません。最近では、歴史修正主義という流れが強まっています。第2次世界大戦を体験した人が10%程度になったもとで、「日本による戦争は正しかった」というような主張や「南京大虐殺はなかった」「慰安婦はねつ造だ」「日本はアジアを開放した」「植民地にもいい面と悪い面があった」というような言説が盛んになされています。
このような言説を流布する一つの目的は、歴史の相対化にあります。歴史的な事実を全否定することは極めて困難なので、どちらが正しいかよく分からないという状況をつくり、歴史を歪曲するところに一つの目的があります。
歴史を歪める最大の目的は、日本国憲法の改正にあります。国民主権と基本的人権、恒久平和、この3原則は日本の歴史と伝統には合わない、これを変えなければならないという政治勢力が、台頭しています。こういう状況の中で、政治家がどのような歴史認識をもつのか、歴史から何を学ぶのか。これは極めて大切な今日的課題になっています。
こういう認識の下で、具体的に質問いたします。
資料の1ページをご覧下さい。ここに質問の問いが書いてあります。同時に2ページ以降の資料が、かつらぎ町の中学校で現在使われている歴史教科書であることを示しました。今日の質問は、この歴史教科書を使ったものになります。
日本の歴史教科書は、日本の戦争の「記憶」を資料として国民に伝えるものです。この教科書は中学2年生で使われているものです。中学2年生は14歳、親の世代は40代、祖父母の世代は70代、どの世代も戦争体験はありません。歴史の記憶を教科書で学ばなければならない時代になったと思います。採用された教科書は、国民共有の「記憶」だと思います。町長は教科書から学ぶことの意味をどうお考えでしょうか。

一般質問は、こういう切り出しだった。このもとで満州事変を侵略戦争だと認識しているか。日中戦争を侵略戦争だと考えるか。日中戦争の延長線上にアジア太平洋戦争があった。この戦争を侵略戦争だと認識しているか。一つ一つの戦争の節目の状況を示しながら一つ一つ丁寧に質問した。
これに対して中阪町長は、事前にこの教科書を丁寧に読み込んでいて、自分で答弁書を作成し答弁してくれた。ただし、ぼくが迫った「侵略戦争だったかどうか」については、一貫して言及をさけた。

満州事変から始まった15年戦争が日本の侵略戦争だった。僕たちの世代の教科書にはそう書いていたし、日本とドイツとイタリアによる三国軍事同盟は、日独伊防共協定として解説されていたし、日本もファシズム国だという認識だった。このような表記が変えられたのは1980年代だった。ニュースにもなった侵略を侵攻と書き改めたのは一つの事件だった。
ぼくは、「私たちの世代の教科書は侵略と書いていた。歴史的事実は何も変わっていない。日本による侵略戦争だったことは明らかではないか」と主張した。

僕たちの世代。ぼくは笠田高校で現代史(明治以降現代まで)の歴史を学んだ。しかし、現代史は選択授業だった。330人ほどいた生徒の中で日本史を選択したのは50人弱だった。こういう状況があったので中阪町長が高校時代に日本史で現代史を習ったかどうか。それはぼくには分からない。戦争が終わって15年経ってぼくは生まれた。1960年のことだった。中阪町長が生まれたのは1958年かも知れない。この世代は、親の世代から戦争について話を聞く機会のあった世代だった。しかし、歴史を教科書から学ぶという点では、同世代の現代史に対する認識というものは、かなり心許ない。中阪町長が教科書によって答弁を準備し、侵略戦争という言葉を避けて答弁したのは、同時代の人間の一般的傾向を示しているとも感じた。

議場の中で満州事変からアジア太平洋戦争までポイントを示して質問した内容に対して、「よく分かった」「おもしろかった」という人、「歴史の講義を聴いているようだった」、「よく分からなかった」という人に大きく分かれた。同じ世代であっても、歴史的な経緯をほとんど知らない。そういう傾向が強いというのは、かなり一般的な傾向だろう。

行政の長であり政治家である僕たちと同世代の町長が、歴史認識については、かなり心許ない状況にあるということを改めて把握できたのは一つの収穫だった。しかし、同時に自分たちの基本的な教養としても、自分を支える歴史認識としても、現代史を文献から学ぶということを自分たちの世代の課題とすべきなのではないだろうか。

少し脇道にそれるが、歴史修正主義と歴史学との論争の状況に触れておきたい。もちろん、こういう内容については質問では一切触れなかった。
歴史修正主義者の事実に基づかない言説を打ち破るのは並大抵のことではない。この努力は、世の中に出てくる本によってかなりの規模で行われているが、どの本が事実に基づいて書かれているのかを見極めるのはかなり難しい。大学教授の中にさえ、事実の論証を抜きに自分の考え方にもとづいて歴史を修正しようとしている人がいる。それは政治の力を背景にして、歴史的事実に対する反証(反証にならないことが多いのだけれど)として出されている。南京大虐殺はなかったという主張も、虐殺の人数がはっきりしていないことをもって、「なかった」と主張する意見が力を持っているかのような言説もある。

しかし、日本の広島の原爆による死者もはっきりしていない。それには理由がある。旅行者や滞在者の人数が明らかにならないのは、今も昔も同じだ。現代の日本の場合は、戸籍も住民票もかなりの精度をもって明らかになっているが、たとえば東京や大阪などの都市部には、かなりの人数のホームレスが存在する。おそらく都市部には、アメリカの基地からパスポートなしに日本の国に入り込んでいるアメリカ関係の人間がいる。こういう人間の中にはアメリカ本国が死亡を確認しても、あえて明らかにできない人間もいる。日本の大都市部で直下型地震が発生したり、東日本大震災のようなことが起こったら、死者の人数を特定するのは極めて難しい。

中国の当時の状況でいえば、中国共産党と中国国民党との間で内乱が行われており、そこに日本帝国主義の侵略があった状況だし、国の形態が定かではなかったし戸籍さえはっきりしていなかった。こういう状況下で南京事件で何人人間が死んだのかといういのは、なかなか難しい。当時中国軍の軍人は、中国側にも記録があるので軍人が何人死んだのかというのはかなりの精度で分かるようだ。しかし便衣兵(ゲリラ)という民間人の姿格好をしながら兵隊だったとされる人々になると人数がはっきりしない。何をもって日本側が便衣兵だとしたのかというのもよく分からないし、中国系の民間人が何人殺されたのかというのは、より一層分からない。

こういう把握が難しい問題とともに、南京事件がどの範囲で発生したのかということも、歴史的経緯を踏まえて把握していかないと本当の姿は見えてこない。したがって、事実を特定するためには、現地が当時どのような状況だったのかを把握しないと南京事件は論じることさえできない。しかし、南京事件そのものが「なかった」という主張をしている人々は、この基本的な事実把握を全くしないで、南京市の人口は20万人という、これも事実とは合わない一つの資料を根拠に「20万人の南京市で30万人の中国人が殺されたというのはあり得ない」という主張をしている。これは歴史学の事実認定へのアプローチを全く度外視した「論外」の意見なのだが、これがあたかもまことしやかな言説として日本では発言権を得ている。事実に基づいて丹念に南京事件を把握しようとしている研究者は、南京に足を運び、当時の状況をさまざまな角度から把握して、丹念に事実を特定している。南京市の中には、南京安全区国際委員会というエリアがあって、ここに逃げ込めば安全が保障されるという認識が中国人の中には存在した。しかし、日本軍はこの安全地帯を承認しなかった。

日本軍が長江を遡って南京に攻め入ってくるときに、周辺部から南京市の安全区に逃げ込んだ中国人の民間人が数多く存在した。こういう経緯もあったので南京市の人口が20万人だったという話は、全く話にならない。人口の根拠にしている20万人という数値に対して、何の検証も考察も事実認定もしないで、20万人の人口に対して30万人も日本兵が殺したというのは成り立たないという言説は、批判に耐えないものだということが明らかになっているのに、日本では未だにこういう言説がまかり通るような状況にある。

話を元に戻そう。
歴史学的に日本の侵略戦争については、丹念な事実認定にもとづいて決着がついている。しかし、政治的なイデオロギーを帯びた歴史修正主義が台頭してきて、歴史的事実を歪めようとしているもとで、どのような歴史認識をもつのかが難しい時代になっている。学校できちんと現代史を習っていれば、自分の判断で歴史的認識を培うこともできるだろうが、これ自身が一筋縄ではいかない問題として国民の前に立ちはだかっている。

質問では、アジア太平洋戦争に至る歴史を概括した上で、日本がなぜアジア太平洋戦争に突入したのかを示し、この戦争がドイツとイタリア、日本による世界の再分割のための戦争だったことを歴史教科書を踏まえて訴えた。

その上に立って、日本が受け入れたポツダム宣言について、ポツダム宣言の全文を資料で示し、「ポツダム宣言が日本の戦後の原点だった」という認識をお持ちかどうか尋ねた。中阪町長は原点という言葉を使わず答弁したが、認識は基本的に一致していたと思われる。

歴史教科書は、ポツダム宣言の実施によって日本が大きく変化したことを書いており、その上に立って日本国憲法が誕生したことを書いている。ぼくは、日本国憲法は、大日本帝国憲法の一部改正として帝国議会に提出され、4か月の審議を経て可決成立したことを教科書にもとづいて示し、教科書にある大日本帝国憲法と日本国憲法の比較表にもとづいて日本国憲法の特徴を説明し、憲法3原則(国民主権と恒久平和、基本的人権)について、中阪町長に尋ねた。

この3つの原則が相互に関連し合って成り立っていること、この3原則を守ること、基本的人権が生まれながらにして国民に与えられた永久の権利であることを積極的に認める答弁を行った。

さらにぼくは、日本国憲法第99条を示して、公務員の憲法擁護義務について見解を質した。立憲主義の精神は、まさにこの条文に集中的に現れている。この規定の中に国民は含まれていない。憲法を守る責任は権力者である公務員に課せられており、基本的人権を真っ先に守る責任を負っているのは公務員だというとを明らかにし、この基本的人権の天賦人権説を止めるという勢力が台頭していることを示した。

この上に立って憲法第9条を守るかどうか、中阪町長に尋ねた。
憲法9条を守ることは当然だが、憲法9条を守ることと憲法9条の改正はまた別の話だという趣旨の答弁を行った。

この答弁に対して、ぼくはユニークな答弁だといい、憲法改正が何を目的にして行われようとしているのか、この点については、別の機会の質問になるとして、質問を終わった。
歴代町長の歴史認識と中阪町長の歴史認識には、かなり鮮明に世代間の違いが現れたと思われる。世代の中にある歴史認識の弱さに対してどうアプローチしていくべきなのかを考えさせられる一般質問になった。

この質問を通じてぼくは、かつらぎ町の戦没者のことを調べ始めた。地方自治体にとって極めて重要だった兵事係による徴兵関係の事務、在郷軍人名簿、徴兵検査の資料、残された遺族に対する援護などの資料は、1945年8月15日、国の命令によって機密文書として焼却する命令が発せられている。公文書の焼却処分によって、地方自治体は、どの戦争で誰がどのようにして召集され、どのようにして死んでいったのかという極めて大事な、人間の命に関わる問題が分からなくなってしまった。全国の兵事係の中には、焼却処分に対して、こんな大事な資料を燃やしてはならないと考えた人がほんのわずか存在した。ぼくはその関係の本を少し読んで、長野県のある村の兵事係が資料を保管していたドキュメンタリー映画をDVDで購入することにした。同時に和歌山県に戦争による戦死者の資料を送ってもらう話をしたときに、父の兵籍簿について問い合わせて、その写しを交付してもらうようにしようと思い立った。自分の父が中国のどの戦線で何歳の時に配属され、どのような道を歩いたのか、どのような戦争の状態にいたのか調べたいと思った。

自分にとって今回の一般質問の準備は、かなり印象に残るものとなった。学びながら、調べながら質問を準備すると自分の思いの中に新しい形ができる。そう感じた。


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Posted by 東芝 弘明